先日の、ルビコンの決断に「日本の味 マグロを守れ 世界初!クロマグロ完全養殖に挑んだ男たち」と題して近畿大学水産研究所の熊井英水(くまいひでみ)氏、原田輝雄氏、岡田貴彦氏の挑戦が紹介されていました。 近畿大学は、文科省がグローバルCOEプログラムに認定され世界をリードする人材を育成している。 岡田貴彦氏は、「我々の技術を世界に発信して、世界のマグロの養殖を完全養殖でまかない。天然資源に手をつけないで保護する」 熊井英水氏は、「これだけ進んできた魚の養殖技術を伝統的につないでいかなければならない。若手の研究者・技術者を教育していきたい。こういうところに大きな目標がある」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スタジオの宮原正典(みおやはらまさのり)氏は、「4割削減すると、この経済状況で高いマグロが売れなくなってきて在庫が有って、大きな影響は無いですけどトロを沢山提供するための生産体制ですから、みなさんが沢山トロを食べられなくなるのでは・・・」 木村佳乃さん 「一番影響を受けるのは回転寿司?」 大浜さん 「交渉次第ですが、削減4割ですけれど完全に止めようということも」 宮原さん 「そういうことを主張しているのはアメリカなど。完全養殖を目指しているけど成功しない。 完全養殖というのは 091211_1600~01 天然幼魚を成魚にして卵をから稚魚にして成魚にするサイクルの事で近畿大学のように完全養殖って注目されているんです。養殖技術が発展のスピードが早いですから将来爆発的になるのでは、それが、スタートになって産業に結びついている」 木村さん 「32年間挑み続けた。本当にマグロって繊細な魚なんですね」 宮原さん 「始めた頃は、誰も成功するとは思っていなかった。30年の積み重ねですね。デリケートな魚の卵を産ませて育てられた事はとても凄い事です」 大浜さん 「クロマグロってそんなに減っているんですか」 宮原さん 「取り過ぎてしまったという事です。 生産の拠点は7・8割が地中海で天然の魚を捕獲して生簀で育てて脂身をまして出荷している“蓄養”」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 近畿大学水産研究所の所長 原田輝雄は、魚と向かい合い研究をリードしてきた。そんな、原田のもとにマグロの研究が託された。「日本の食卓のクロマグロは我々が成功させよう」と、熊井に夢を語り研究が始まる。 世界でも、クロマグロの養殖は成功していない。近畿大学が目指したのは、完全養殖で天然の資源を減らすことなく。いつでも美味しいマグロが提供出来ること。 1948年 近畿大学水産研究所は、日本の食糧難を救う為に作られました。ヒラメの完全養殖に成功して日本の養殖のパイオニアでもあった。 完全養殖の始めは、先ずは、幼魚を捕まえて生簀で育てる事から始める。場所は、本州最南端和歌山県串本市。幼魚を捕まえて生簀に放したが1ヶ月もすると全滅。マグロは、常に泳ぐ事で水中の酸素を取り入れる。皮膚が弱くて小さな傷が致命傷になる。 生簀の大きさ形を変えたり網の素材を変えてみたがマグロは全滅。ここで3年が過ぎた。 熊井は、タイやヒラメの技術は通用しない事を痛感。 完全養殖を目指して10年。産卵は水温が高い時期の夏。学生も産卵を観察、研究員は朝早くからマグロのエサのイワシを切り刻む。朝から夜までマグロの観察し続けた。遂に産卵した。卵は夜通し観察し卵を孵化させる任務はハマチやヒラメの実績がある村田修に託された。35時間後、クロマグロが孵化しはじめて人口孵化に成功。しかし、誕生から47日で全滅してしまった。 1986年熊井たちはもがいていた。 原田所長 「岡田君はどう思います?」 岡田君 「絶対エサだと思います。明日から、ビタミンEを増やしませんか?」 熊井さん 「それよりも、水温だと思うんだ。暖かい場所に移したらどうだろう」 と試行錯誤の連続。 ホルモン剤を打ったり、ありとあらゆる手立てを尽くしたが、翌年も産卵は起きなかった。 原田所長 「やはり、クロマグロはマグロの王様だ。簡単にはいかないね。頑張って研究を続けよう」 熊井さん 「研究をしたくても卵が無ければ、何も出来ません。進みたくても進めないんです」 原田所長 「迷ったら魚を見なさい。じっと、魚を見ていれば必ず何かを教えてくれる」 熊井は、過去のデータを洗い直した。そして、「やはり水温の問題と思います。水温の高い所に新しい生簀を作らせてもらえませんか」と訴えるが、実は、マグロの養殖には莫大な費用が掛かる。普通の大学の研究所ではまかなえない。近畿大学は、ハマチや幼魚を出荷して売上を研究費につぎ込んでいました。 しかも、国の援助金がスットプ。 大学の理事会では、国の援助金が無いのだからマグロの研究から撤退すべきですという意見が出てきましたが、原田所長は、もう少し研究を続けさせてくださいと懇願しました。だが、1991年6月原田所長は脳梗塞で亡くなってしまいす。研究は熊井が後を継ぐしかありません。しかし、マグロの産卵は、8年間止まったまま。熊井は、“私には無理だ”と思ったとき原田所長が残した研究日誌が目に止まり“魚に学べ”が原田所長の残した形見。そして、もう一つ残してくれたのが原田貴彦君。 1993年 熊井は所長に就任し、総長室におもむき「マグロの研究を続けさせてください。資金がかかり過ぎている事は分かっています。他の研究に迷惑をかけている事は分かっています。日本の味マグロを一人でも多くの食卓に届けたいのです。マグロはお金持ちの魚なんかでは有りません。庶民の魚なんです。美味しい魚を食べさせたいんです。必ず、研究で実現します。お願いします」と頭を下げると。 近畿大学総長世耕政隆は、「不可能を可能にする。それが研究だ。それは、父の言葉です。生き物の研究です。どうか、長い目で」と理解を示してくれる。 翌年、記録的な猛暑。1994年7月2日 奇跡が起こった。12年ぶりにマグロが産卵した。それは、水温。マグロが産卵しやすい状態がうまれていた。産卵から、35時間後、遂に孵化が始まった。しかし、12年前の悪夢がよみがえり、今度は、岡田が指示を出し「塩分濃度をあげよう」と。彼らは、幻の魚クエの人工飼育の高い技術も習得していた。酸素の量、水の交換のタイミング、エサの種類と11年間蓄積した技術をそそいでいた。無事に0.2%の6千尾が生き残り生後20日が過ぎたが、ここから更なる試練が・・・・マグロが共食いをしている。直ちに大きさに分けて別の水槽に分ける。そして、次のステップ。稚魚を成長させて成魚にすること。沖出しの時が来た。しかし、生簀のマグロは全滅。 大量死の原因は分からなかった。ところが、ある夜停電した。照明が付くとマグロの稚魚は水槽に体当たりしていてレントゲンを撮ると骨折しいていた。 光が付いた事でパニックを起こしていたのだ。沖出ししたマグロが全滅したことが分かった。国道に走る車のヘッドライトにパニックになって死んだだことが分かった。そこで、生簀に黒い遮光のシートを覆いパニックを防止した。2001年の6年後 マグロは、100キロにまで成長。いよいよ産卵の時期をむかえていた。天然の資源に頼る事の無い完全養殖が実現すると思ったが、大型台風が和歌山に上陸しそうだった。 海が汚れるとマグロがパニックをおこして全滅する可能性がある。 台風が去った翌朝、沖の生簀に行くとマグロが全滅かと思ったが、20尾助かっていた。このマグロが奇跡を起こし卵を生むんです。 “卵から育てたマグロが遂に親になったんです” 近畿大学が、目指した完全養殖を成し遂げた瞬間でした。 2002年6月 091211_1746~01 熊井英水は、「ただひたすらに続けてコツコツとやって来た。それの重いが通じてんじゃないかとそんな気がします。ゴールじゃない始まりです」と語りました。 ツイートこの記事をつぶやく