杉田二郎        今週はシンガー・ソングライターの杉田二郎氏が 「人間発見」 のコーナーにインタビュー記事が掲載されていましたからご紹介します。        戦後生まれの第一世代。 「戦争を知らない子供たち」 「男どうし」 などで知られるシンガー・ソングライターの杉田二郎さん(67)が今年、デビュー47年を迎える。 その杉田さんが昨年秋、初めて病気で仕事に代役を立てたことはあまり知られたいない。      1968年4月、大学生のときにアマチュアの初代ジローズで 「あなただけに」 「マイ・ハート」 でレコードデビューし、47年を迎えます。 しかし、昔からあったのですが、肝臓に水が溜まる肝のう胞が巨大になり、黄疸も出たので昨年9月、イルカさんのラジオ番組出演を断ることになりました。 変わって同じプロダクションの堀内孝雄氏に出てもらったのですが、僕が病気で仕事に穴を開けたのは初めてです。      僕は昔の人間なんだと思いましたね。 団塊世代(47~49年生まれ)の1つ上ですが、待っている人がいると思うと断れない。 昨年12月1日に福岡のライブを終え、12月上旬に本格的に手術しました。 10月以降はお腹に穴を開けて管を通す応急処置を施したまま必死で歌いました。 振り返っても幼い頃、アイスキャンディーにあったて父親と一緒に入院したことがあるくらいで、大きな病気をしたことは無い。 今は少し休憩を頂いていますが、桜が咲く頃には絶好調になる予定です。        同じ46年生まれ、精神科医で作詞家の北山修さんと一緒に作った曲も、「戦争を知らない子供たち」 (70年) を含め、100曲を超えた。      昨年11月の 「きたやまおさむのレクチャー&ミュージック」 では、彼が講演し、僕が歌いました。 彼の話を聞いていると、人間のものの見方、考え方を精神科医としてきちんと分析していることがわかって面白かった。 彼はどこか底辺でつながっているのではと最近良く感じるんです。 彼の父は内科医で、人の命にかかわり職業。 ある日 「ご臨終です」 と言わなければならないこともあったと思う。 一方、私の父は宗教家で、人の死後の世界に関わり、人々の日常の喜怒哀楽を背負うと言う姿を、子供の頃から見て育ちました。      若い頃、散々議論しながら一緒に楽曲を作ってきた2人ですが、「戦争を知らない・・・・」 が大ヒットし、我々世代の代名詞と呼ばれるようになり、賛否両論の反響の大きさを受け止めかねてお互い傷ついたりしました。 しかし、その後も僕の転機の節目節目に、彼がいてくれた気がします。        その北山さんが、杉田さんのデビュー40周年記念アルバムでは、還暦を祝う 「何度でも二十歳(はたち)」 や 「前向きに倒れてみたい」 などを作詞した。      アメリカンフォークに出会い、素人の自分でも思いを歌っていいんだという現実に衝撃を受けて、僕の音楽生活が始まりました。 ある時期から北山氏は精神科医の道を歩みだし、ぼくは 「戦争を知らない・・・・」 の呪縛を逃れるようなタイミングで、父の世界を理解しないことに済まされないと音楽を離れて修行をした時期ある。       その後、ロンドンにいた北山氏を訪ねて、一緒に 「男どうし」 などを作り上げ、帰国後に沖縄のコンサートで会場から 「戦争を知らない・・・・」 の大合唱が起き、僕はやっと呪縛から逃れることができた。 また、年を経るにつれオリジナルにこだわらず、自分の好きな楽曲を歌うボーカリスト、シンガーの道も切り開けました。      今は好きな曲を自由に歌いたい気持ちがふつふつとわいてきます。 しかしながら、僕らも、生まれ来る新しい生命たちも、永遠に 「戦争を知らない子供たち」 であってほしい気持ちでいっぱいです。 自分たちに子供が生まれ、孫もでき、新しい世代に向けたメッセージができました。 「前向きに倒れてみたい」 の歌詞は、「朝目ざめれば 足から腰 痛みが走りぬけて 新聞読めば何もかもが かすんでよく見えないな」 で始まります。 「変わらないのは気持ちだ あの日ままで」・・・・。 そして最後のフレーズは 「ふらつき息が切れても 前向きに倒れてみたい」。 年は取りましたが、ゆっくりと前のめりに歩きたい、と云うのが僕の気持ちです。                        ツイートこの記事をつぶやく
       インターネットで通販や銀行、ゲームなど複数のサイトに同じID、パスワードを使い回している利用者を標的とした不正ログイン被害が、2013年に68万6470件に上ったことが、情報セキュリティー大手、トレンドマイクロの集計で分かった。        特定のサイト運営会社から流失したり、大規模な被害例では、IT大手サイバーエージャントが運営する会員制ブログサービス 「Ameba(アメーバ)」 で約24万件の不正アクセスがあった。        通販サイト 「セブンネットショッピング」 では、最大で約15万件のクレジットカード情報が流失した可能性がある。        個人認証の為に入力必要なIDとパスワードは本来、利用者本人しか知らない為、第三者が不正にログインできない仕組みになっている。        しかし、ネットの利用が広がるにつれ、同じパスワードなどをどのサイトにも使う人が増えてきた。 こうした利用者の場合、第三者がいったん盗めば、別のサイトにも本人になりすまして容易にログインできる。        この結果、個人情報を閲覧されたり、勝手に買い物されたりする被害が拡大されやすい。 トレンドマイクロは、個人情報を狙う最バー攻撃が広がる要因になるとして安易なID、パスワードの設定に警鐘を鳴らしている。                     ツイートこの記事をつぶやく
       東京都心が来年度から “寒く” なる可能性がある。 気象庁が東京・大手町の気象観測店を50年ぶりに移転する方針で、約1キロ離れた公園にある新たな観測点は現在地より最低気温が低めになるとみられるためだ。 新観測点は試験運転中で、気象庁は 「気象データにどのような特徴があるのか調べたい」 としている。        新たな観測点は、日本武道館や科学技術館などがある北の丸公園(東京・千代田区)の木々にかもまれた芝生の一角。 温度計や雨量計が設置され、気温や湿度などリアルタイムで表示するモニター画面もある。        気象庁の本庁者が東京都港区の小学校跡地に移転することが2008年に決まり、1964年から本庁者敷地内にある観測点も移ることなった。 「自然に恵まれ、将来も近隣に建物ができる恐れがほぼ無い」 との理由で北の丸公園を選んだという。        移転による気象データへの影響を見極め、2011年8月から試験運転を開始。 大手町と北の丸公園の2013年12月までの月別の平均最低気温を比べたところ、どの月も北の丸公園が低く、最大で1.8度も下回った月もあった。         立正大学の吉崎正憲教授は 「大手町の観測点はアスファルトの道路やビルなどが周囲にあり、熱しやすく冷めにくい特徴がある。 緑の多い北の丸公園のほうが相対的に気温が低くなる」 と説明する。        一方、つく別の平均最高気温は最大0.6度の差にとどまった。 北の丸公園が大手町を上回った月も10回あった。         試験運用は2014年7月までの3年間で、気温、湿度、雨量、気圧、積雪のデータを観測している。 気象庁によると、観測点の移転は時々あるが、移転前に試験運用するのは始めて。        担当者は 「東京都心は日本を代表する観測点。 国民の関心も高いだけに、移転による影響を正確に把握するように努めている」 と説明する。        気象庁は試験運用が終わった後、正式に東京都心の観測点とする方針。 担当者は 「新旧の観測点の気象状況に戸のような違いがあるか、今後データ分析して発表したい」 と話している。                         ツイートこの記事をつぶやく
               お花見      NIKKIプラス1 に 「お花見楽しむ鉄道や船」 という特集記事が掲載れていましたからご紹介します。        鉄道の部門    第1位は 「嵐電・北野線」  鳴滝~宇多野(京都市)    ◆ ライトアップで幻想的    京都市内を走る嵐電。 その桜の名所が 「嵐電桜のトンネル」 だ。 線路の両脇に70本ほどのソメイヨシノの枝を連ねる桜並木が200メートルも続き、車窓からなげめる景色は圧巻。 1926年(大正15年)3月の北野線前線を開通を記念して植えられた桜だ。 満開の次期になると、車内等を消した 「桜の幻想的な景色が堪能できる」、「ちょっとおとなのたびが楽しめる」。    3月中陣から1っ花月ほどの期間は車内を桜の花で装飾した 「桜電車」 が1両のみ登場する。 乗られたらラッキーだ。 少し足を伸ばせば仁和寺や太秦なども有り、街歩きとともに楽しみたい。 「京都らしく周辺には神社や寺が多く、非日常の雰囲気を味わえる」。        第2位は 「肥薩線」  大畑 (熊本市)    ◆ SLやレトロな内装    開業100年の歴史を持つ鉄道は熊本、宮崎、鹿児島を通る。 急流の球磨川や自然豊かな渓谷などと一緒に桜を眺められるのが魅力だ。    一番の見所は大畑(おばこ)駅。 ループ式の線路なのに、急な斜面を上り下りする為のスイッチバックが有り、その東部に駅舎がある。 木造建築の駅舎は明治時代完成したもので、素朴な雰囲気。 近くには梅や桜の名所 「人吉梅園」 もある。 白煙とともに駆け抜ける 「SL人吉」 やレトロな内装が楽しめる 「いさぶろう・しんぺい」 など  「人気列車が通る路線でもある点がよい」。        第3位は 「東北本線」  大河原~船岡 (宮城県)    ◆ 車窓の直ぐそばに     線路の横に流れる白石川沿いに8キロもの桜並木が続き、「一目(ひとめ)千本桜」 と呼ばれる。 「思わず車窓から手を野なしたくなる距離に迫ってくる」。 開花時期は列車が徐行運転する。    船岡城址公園の付近は 「パノラマ状に桜並木が広がる」。 船岡駅で降りて川沿いを歩くと桜とともに残雪の蔵王連峰が美しい。 例年見ごろは4月中下旬。        第4位は 「いすみ鉄道」  大原~上総中野 (千葉県)    ◆ 花畑進むよう    房総半島の里山を進む鉄道の沿線全てが菜の花で黄色く染まる。 見所は国吉~大原区間で 「乗客は花畑をかき分けるような感覚」。 ムーミン列車も愛らしい。 小湊鉄道と接続していて房総半島を横断できる。        第5位は 「中央本線」  新府~穴山、勝沼ぶどう郷 (山梨県)    ◆ 一面ピンクに     甲府盆地を見下ろす活沼ぶどう駅は 「ホームの直ぐ下に桜並木が広がる」。 新府駅と穴山駅の区間は 「桃源郷と言うほど桃の花で一面ピンクに染まる」。        第6位は 「津軽鉄道」  芦野公園 (青森県)    津軽五所川原鉄道から津軽半島を北に走るローカル鉄道。 芦野公園駅付近では列車が桜のアーチをくぐるよう。 「途中下車して太宰治ゆかりの地を歩くのもいい」。 花見の時期は 「走れメロス号」 やストーブ列車でさくら弁当を楽しみたい。         第7位は 「大井川鉄道」  家山 (静岡県)    SLが原則毎日、新金谷~千頭間を往復する。 「日本の原風景を思わせる 桜や茶畑が美しい。 最大の見所は家山駅で、レトロな駅舎が桜に良く映える。         第8位は 嵯峨野観光鉄道  嵯峨~亀岡 (京都府)    川くだりの船も有名な保津川沿いの約7キロを25分で走る。 ディーゼル機関車に引かれる5両編成のトロッコ列車は見た目もかわいらしい。         第9位は 「樽見鉄道」  谷汲口~樽見 (岐阜県)    日本三台桜の一つ、樹齢1500年を超す淡墨(うすずみ)駅ホームや駅の周辺も桜がいっぱい。 4月1~15日は 「桜ダイヤ」 で増発する。         第10位は 「のと鉄道七尾線」  能登鹿島 (石川県)    能登半島を走る第三セクター鉄道。 能登鹿島駅は通称 「能登さくら駅」 で、「駅を覆うに100本の桜が咲き誇る」。 4月は、夜間はぼんぼりで照らイベントが毎年ある。        船から    第1位は 「隅田川ライン」  東京都     ◆ スカイツリーと相性抜群    隅田川沿いの桜を 「陸との喧騒から逃れ、ゆったり楽しめる」 遊覧船。 「桜と東京スカイツリーの相性は抜群。 下町の花見を味わえる」     花見シーズンは昼間の定期便のほか、振袖姿の女性が同情する夜桜船の運航し 「江戸の舟遊びを感じられる」。         第2位は 「北上川観光遊覧船」  岩手間北上市    ◆ 300匹のこいのぼり     弘前(青森県)、角館(秋田県)と並ぶ 「みちのく三大桜名所」 で北上川沿いの約1万本の桜並木が美しい。 シーズン中は川を横断する形でたちで300匹のこいのぼりが空を泳ぐ。 渡し舟や観光馬車も。        第3位は 「柳川川くだり」  福岡県柳川市    水郷の街、柳川の名物 「どんこ舟」 で 「船頭さんの舟歌を聴きゆったり桜を堪能できる。 4月3日まで柳川雛祭りを開催。        第4位は 「海津大崎桜花見船」  滋賀県彦根市    琵琶湖岸に4キロほど続く桜並木が美しい。 「湖面と桜のコントラストは見事」         第5位は 「大川さくらクルーズ」  大阪府    6社共同運航で多いときは5分間角で就航し、大川沿いの桜と大阪城を眺められる。          春の訪れはまだ遠いが、花見を楽しむ旅行は今から計画しておきたい。 近所の花も良いが、列車や船に乗って咲き乱れる花をめでるのも趣がある。         日本気象協会に酔えば今年のソメイヨシノの開花予想は東京が3月29日ごろで大阪府が27日ごろです。        東京だと上野公園、千鳥が淵、靖国神社に目黒川沿いあちこちにいけるな~~                         ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーのセブンーイレブン社長 井坂隆一氏のインタビュー記事のご紹介は今回で最後のご紹介になります。        1990年代後半から弁当、おにぎり、惣菜類の開発の責任者となる。      新商品がお店に並ぶ為には、役員試食でOkが必要です。 認められないと開発は振出です。 この試食会で11回連続して鈴木敏文会長から 「駄目、美味しくない。 やり直しだ」 と言われた商品があります。 「冷やし中華」 です。 当時の駄目出し回数最多の不名誉な記録でした。 何度も突き返されると、何が美味しくないのか、全く分からなくなってしまいました。      これでは開発のリーダーとして方向性を打ち出せません。 実際に作っている取引先にも迷惑が掛かります。 そこで鈴木会長に 「お好きな冷やし中華のお店を教えてください」 と頭を下げ、ある有名点を教えてもらったのです。      早速、開発メンバーとその店に何度か食べに行きました。 さすが有名店の味です。 美味しさに秘密は何か。 どうすれば分かるか考えました。 思いついたのは 「美味しさの見える化」 です。 麺の場合、グラフにして縦軸の硬さ、横軸の弾力とします。 それを知る為には名店の冷やし中華が必要です。 駄目もとで料理長に事情を話すと快く麺とつゆを分けてもらえたのです。 コンビにとめ移転では競合しないと思われたのでしょう。       開発メンバーの中の製麺会社の人から硬さや弾力を計測する機械をお借りして分析開始です。 すると明らかに自分たちの麺と名店の麺では数値が違っていました。 データを下にゼロからやり直した末にようやく鈴木会長からOKが出て、商品化にこぎつけることができました。       実は友人やメーカーの皆さんからは 「コンビにだからしょうがないんじゃない」 と言われることがありました。 こちらは一生懸命やっているのに、そう言われると悲しかったです。 だから 「うまい」 と言わせたかった。 部下とは 「 『しょうがない』 と言われないようにしよう」 と誓い合いました。        名店の味をベンチマークにして商品開発を加速させた。      料理専門家を招き、美味しさの研究を全社的な取り組みにしました。 先生たちから研修を受けていたとき、高校時代のことを思い出しました。 友達が遊びにくると母は決まってカレーでもてなします。 「井坂の家のカレーは何時も美味しいなぁ」 とみんなが褒めてくれましたね。 当時は母も喜び、自分も誇らしいと思っただけでしたが、その理由が先生との会話で分かりました。 「カレーは玉ねぎに始まり、玉ねぎに終わる」。 玉ねぎをあめ色になるまで炒め続けるのが決めてだったのです。 美味しさにそれなりの理由があることを知りました。      ただ家庭でも名店でも料理は鍋や釜で一食一色作りましが、私たちは何千食という単位で作ります。 家庭や名店の味を再現するためには調理器具の改良も欠かせません。 大量の玉ねぎを切って大型調理器具の試作機の前に立っていたときは涙が止まりませんでしたよ。 試作機を何度も作り直してようやく大量のあめ色の玉ねぎの出来上がりです。 おかげで美味しいカレーが作れました。      大量に食材を使用することで食材調達のコストが差上がり、計画的な調達は効率化に役立ちます。 一流を目指していくことに 「コンビニだから」 という制約が無い事を示しました。        2009年に同社初の生え抜き社長に就任する。      コンビニ業界の飽和説がささやかれていますが、私には理解できません。 高齢社会、女性の社会進出、単身世帯の増大、買い物弱者の存在、上質消費の拡大など世の中大きく変化しており、それに対応していくことで成長を続けること可能だと確信しているからです。 2009年秋からセブンイレブンのキャッチフレーズを 「近くて便利」 にしたのも、こうした社会的変化を背景にしています。      生活インフラとしての役割を担い、先日の大雪で交通が寸断された地域にヘリコプターで生活物資を届けました。       これからはもっと早いスピードでお店の中身は変わっていくでしょう。 「変わることに億劫になっていないか」 と自問自答しながら経営に携わっていきます。 今は役員会で試食する側になりましたが、商品開発で妥協しない姿勢は変わらないです。                           ツイートこの記事をつぶやく
       セブンイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のご紹介も今日で4回目となります。       29歳のときに、弁当や惣菜の配送体制を抜本的に改革する担当となる。      1987年、鈴木敏文社長(当時)が全社に大号令をかけました。 「3便をやるぞ」。 当時の弁当や惣菜は専用工場から1日に2回配送していましたが、それを3便にするというのです。 弁当などの商品開発の仕事をしていたので、私は至急計画を立てるように指示が来ました。      工場から猛烈な反発が出ることは当然で、やったことの無い24時間フル稼働になるからです。 3便のメリットを説明し、納得してもらうしかありませんでした。 「我々は1日に3回食事をしています。 そのサイクルにあわせて鮮度の高い美味しい商品を届けることは理にかなっています。 今のままだといつまでたっても外食産業や家庭の味には勝てません」 とお願いする日々です。       3便体制だと朝食、昼食、夜ご飯の3色の生活シーンにふさわしいメニュー開発も求められます。 いろいろなところに目配りしながら仕事を一つ一つ積み上げていくことの楽しさも知りましたね。 美味しくなった商品は良く売れました。 工場の利益にも繋がり、従業員の給料も上がります。 時間が掛かりましたがやってよかったです。        ハワイへの赴任を命ぜられる。 現地の 「セブンイレブン」 の立て直しだった。      ハワイのお店はアメリカのサウスランド社(現セブンイレブン・インク)が運営していたのですが経営が芳しくなく、日本のセブンイレブンが89年に救済に乗り出したのです。 日本で商品開発、物流、店舗は衣鉢などいろいろな仕事を経験してきたからでしょう。 「君が、ちゃんとやってこい」 とハワイ勤務の辞令が下りました。 90年春のことです。 鈴木社長が 「進駐軍になるな。 一緒に汗を流せ。 お客様とマーケットを素直に見て、オペレーションを組み立てろ」 と言って、送り出してくれたのを覚えています。      ハワイのお店は、缶ビールなどを山積みしてディスカウントして売っていました。 商品を売って利益を得るというよりも、メーカーに売り場スペースを売ってもうける場所貸し業のようでした。 サンドイッチはお店で作り、品質はまちまち。 日本のように専用工場はありません。 「これは本当に位置から作り直さないといけない」 と思いましたよ。        日本のセブンイレブン流をハワイに導入するのに苦労する。      ますは、サンドイッチをつくってくれる工場探しから始めました。 何とか機内食の工場にレシピを持ち込んで作ってもらったら、わずか数ヶ月で取引が打ち切りになりました。 「注文数が少ない。 各店に配送していたら非効率で割に合わない」 の一点張り。 再び、振出です。 陳列棚も多様な商品が綺麗に入るように変更し、各店舗にあわせてレイアウトの設計をしました。       やはり、日本からやってきた人物は警戒されます。 その空気が分かったのはクリスマスパーティーでした。 「仕事は大変だけど、必ず実を結ぶよ」 と簡単にスピーチをして大空くなビートルズの 「オール・マイ・ラブング」 を歌うと、みんながステージに上げって大合唱となりました。 打ち解けた瞬間でした。      現場にやる気が出てきたのが手に取るように分かりました。 「イサカさん、売れる商品を発注するには時間帯別の販売動向を知らないと発注の精度が高まらない」。 この言葉を聞いたとき気づいたことがあります。 今、ハワイで取り組んでいることは日本のセブンイレブンが創業の頃から築き上げてきた業務・システムの設計思考に繋がっていることだったのです。 非常に貴重な経験でした。        ハワイの再生に手ごたえを感じ始めた頃、業績不振の本家アメリカのセブンイレブンを買収することを知る。      私がハワイで働いていた時にはすでに本国の救済が視野に入っており、ハワイで先遣隊として再生に着手し、その実績を基に本国の救済策を練ろうとしていたのかもしれません。 当時、アメリカでは 「もはやコンビには時代遅れ」 と言われていました。 しかし、どうでしょうか。 便利さを追求する本来の店づくりをしたことでアメリカも再生ができました。                           ツイートこの記事をつぶやく
       今日で3回目になります。日経夕刊の人間発見のコーナーにセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のイッタビュー記事をご紹介します。         就職活動でセブンーイレブン・っジャパンに関心を持つ。      父から上場企業の業績や株価がコンパクトにまとめてある分厚い本を手渡されました。 「これを見て会社選びの参考にしなさい」。 就職活動を控えた1979年夏ごろです。 当時はカタカナの社名が少なかったような気がしました。       証券会社に勤める父とあまり関係のなさそうなメーカーを探して会社訪問のスタートです。 この本はセブンーイレブン・ジャパンは載っていませんでした。 非上場会社だったからです。 でも、何か気になっていました。 まだ生鮮食品は置いておらず、若い人が好みそうなファストフーズ、飲料、お菓子、おつまみなどが綺麗に並んでいます。 いつの間にか家に近くに 「セブンイレブン」 の看板を掲げる店が数点できました。      こんな小さなお店の集積が新しい産業になるかもしれないと、おぼろげながら思いました。 興味がわいて調べてみると、スーパーのような直営店方式ではなく、フランチャイズチェーン方式による出店方式であることも知り、「こんなやり方があるんだ」 と感心したことを覚えています。       上場会社でもないし、父の仕事とは相当離れていることもひかれましたね。 東京の千代田区三番町にあるセブンイレブンの本社(当時)で面接を受けて何とか内定を貰い、父に報告すると 「ああ、もう直ぐ上場する会社だ」 と。 確かにセブンイレブンはその年10月に東京証券取引所第2部に上場予定でした。 当時としては創業から上場までの最短記録を更新したことが話題になっていました。        担当した福島県の店舗で仕事の意義を知る。      入社すると数年間は店舗運営に携わります。 入社した年(80年)の12月、東北地方は市民生活に支障をきたす穂での大雪に見舞われました。 有名なクリスマス豪雪です。 セブンイレブンでもおにぎりやお弁当などを絶やさないように関東地区からも商品を運び臨戦態勢です。 いつもなら、私たちがお客様に対して 「ありがとうございます」 と接客しますが、こうした状況では逆になるのです。 「ありがとう 助かった」 お客様からそう声をかけていただき、初めて小売業に携わる喜びを実感しました。 新人時代の貴重な体験です。       仕事にも熱が入ったのは言うまでもありません。 ところが大半の同時社員が店舗研修を終えて、店舗の経営相談員の研修を受けているのに自分はまだその段階にいけなかったのです。 理由は帳簿上の在庫と店頭にある在庫が一致しなかったからです。 「品減り」 と呼ばれ、店舗から発注した商品が正確に店舗に届けられたか検品体制が充分でなかったり、清算時も正確にレジ打ちが出来ていなかったりしたことが理由です。       24時間営業の店には20人ほどが入れ替わりで働いています。 全員に逸品逸品を大切に管理する店舗運営の仕方を理解してもらわないと 「品減り」 は解消されません。 セブンイレブンやイトーヨーカ堂には 「単品管理」 という言葉が有り、その大切さを痛感しました。       勤務していた 「セブンイレブン虎丸店」 (福島県郡山市)はセブンイレブンが本家区的に24時間営業を開始したお店です。 最終のバスの時刻をスギ、ヒット小一人いない場所でしたが真夜中でも自転車や自動車で買い物に来て、24時間営業が日本でも受け入れられることを教えてくれた歴史的な店舗です。        仙台地区で新規出店の担当になる。      なんと 「品減り」 がなくなり、次のステップに進めました。 しばらくすると仙台地区に進出することが決まり、そのメンバーとして仙台常駐です。 ビジネスホテルに長期予約を入れました。 ところが商品陳列に始まり、従業員の教育など目の回るような忙しさです。 1店が順調に立ち上がると次の新店の立ち上げが待っています。 2ヶ月ほどそんなダンボール生活が続いたでしょうか。 今では有り得ない働き方ですが、懐かしい重いです。      只東日本大震災で被災した店舗に中には自分がお手伝い店も含まれていて心が痛みました。                          ツイートこの記事をつぶやく
       昨日から日経夕刊の 「人間発見」 にセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のインタビュー記事をご紹介していますが今日は2回目です。        高校で生徒会の議長になり所属するテニス同好会を部に昇格させた。      中学でも野球部に所属して白球を追いかける日々です。 レギュラーポジションを得ることはできませんでしたが、3年間の部活生活は充実していましたよ。 足が速かったこともあり、陸上の大会にかり出されました。      高校では公式テニスの同好会に入り、今度は黄色いボールを追いかける青春の日々です。 グラウンドは広くてテニスコートが4面もあり、練習環境は恵まれていると思ったのが入会の理由でした。 ところが入会してつかの間、同好会がコートを使用できるのは週に1回だけだったことを知りました。 毎日、コートで練習したのは運動部である軟式テニス部。 「不公平だ」 と思いました。 メンバーは同好会のほうが多かったのです。      そこであることを思いつきました。 生徒会の議長に立候補してテニス同好会を部に昇格させる世に働きかけることにしたのです。 議長に当選し、部への昇格を議題にのせました。 同好会でも都の大会に出場するなど実績がありましたから、その資格は充分にあると考えたからです。       同好会の活動は自分が良く知っています。 同好会の幹部にあらかじめ事情を含めておいて会議で質問しました。 「対外活動はどんなものがありますか」 と聞くと、同好会の幹部が 「都大会に出ています」 と。 すると私が 「それはすごいじゃない。 真剣に活動していますね」 といった具合です。 自作自演の何物でもありません。 見事に部に昇格できました。 いろいろな人に事情を話して行動をしてもらう楽しさ、大切さを学んだ気がします。      高校は東京大学駒場後者に近く、学生運動も活発だったようです。 私が通ったときには下火になっていましたが、学生運動の看板や後者にペンキで描かれた独特の文字が名残としてありました。        青山学院大学に入学し、スキーに熱中する。      高校時代に取った 「メイド・イン・USA・カラログ」 というライフスタイル雑誌に大きな影響を受けましたね。 それまでのスキーといえば山岳スキーが一般的でしたが、著名なスキー所でアルバイトをしながら長期滞在するスキーバムと呼ばれる人たちが紹介され、興味を引きました。      ちょうど若い人たちにスキーブームが沸きあがろうとしていた次期です。 深夜放送ではユーミン(松任谷由実)の曲が流れ、「スキー場に淡い舞台があるんだなぁ」 と憧れていました。       子供の頃からスキーは好きだったので大学では本格的にスキーをやろうと決めました。 白馬、白岳、志賀などのスキー場を年間80日くらいは山ごもりしていたと思います。 かなりのめりこみ2年生でスキー1級を取り、大学盛況主催のスキースクールに参加して昼間はアルバイトで初心者を教え、それが終わると今度は指導員から特訓を受けました。       ここまでスポーツのことばかりだったのでキャンパスライフについても少しお話します。 大学は法学部に入り、ゼミでは表現、言論の自由の根拠になっている。 「憲法21条」 について学びました。 卒論は公正原則(フェアネスドクトリン)についてです。      後講釈になりましが、この卒論はセブンイレブンのビジネスモデルに通じるところがあります。 セブンイレブン本部と加盟タンとがフランチャイズ契約で対等の関係であることが盛り込まれます。 其々の役割を果たすことでお店の運営が円滑に行くのです。       当時、大学には著名人もいました。 サザンオールスターズの桑田圭祐さんを学食で見かけ、キャンパスを歩くと女優の名取裕子さんは存在感がありましたね。        小さなお店に関心を持つ。      家の近所に夜11時まで営業する 「セブンイレブン」 がありました。 日が暮れると真っ暗になる住宅街に暖色系の証明が生えていたのが印象的でした。 まだ、この店がどのように運営されているかなど知るよしもありません。 ただ、自分のような若者が食べたがる商品が沢山並べてあったのを記憶しています。 壁に貼ってあるアメリカをイメージした明るいポスターも気に入りました。 「スーパーではい新しい形の店なんだ」 と思っていました。 これが 「セブンイレブン」 との出会いです。(日経夕刊)                                   ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の人間発見のコーナーにセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏の記事が掲載されていましたからご紹介します。        店舗面積が100平方メートル足らずのコンビニエンスストア。 1店1店の売上げを足すと年間4兆円近くになる日本の最大の小売業に上り詰めた。 おにぎり、お弁当、惣菜、プライベートブランド(PB=自主企画)商品などの開発に携わってきたのがセブンーイレブン・ジャパン社長の井坂隆一さんだ。      1号店を東京・豊洲に出店して今年40周年を迎え、その店は今も繁盛店として地域の人たちに親しまれています。 おかげさまで全国のセブンイレブンには年間で述べ65億人のお客様が来店され、おにぎりだけでも17億個も買っていただいています。 コンビには社会のインフラと呼ばれるようになり、その期待にこたえるように店舗運営、商品開発に取り組んでいきます。 今月、多くの地域で大雪に見舞われ、一部地域ではお客様にご迷惑をおかけしました。 自宅から一番近い店舗として食料品など生活必需品を絶やさないように生産、配送体制も万全を期していきます。      この世界に入って35年。 当時はコンビニと云う言葉がまだそれほど使われていませんでした。 只、夜中でもどこか温かい照明で人を迎えてくれるセブンイレブンに吸い込まれるように店内に入った記憶が残っています。 一人の消費者からこの会社に入り、いくつかの部署を経験し、経営を任される立場になった。       「コンビにだから・・・」 よいった妥協はしたくありません。 お客様には 「セブンイレブンだから美味しい。 良い品質だね」 といってもらえるまで、突き詰めていく姿勢を大切にしたいです。         東京生まれで、4歳のときに父親の転勤で大阪に住む。      関西弁が覚えられず、引っ込み思案な子供でした。 そのせいかテレビっ子になってしまいました。 証券会社に勤めていた父が帰宅が遅いのをいいことに 「鉄腕アトム」、戦争ドラマの 「コンバット」、濡れ衣を着せられて警察から追われながら真犯人を捜す 「逃亡者」 などを見るのが好きでした。 特撮テレビ 「怪獣マリンコング」 という番組も鮮明に覚えています。 まだ 「ウルトラQ」 や 「ウルトラマン」 が無かった時代です。       小学校に入って野球をやり始めてからは少しずつ関西に馴染んできたような気がします。 補欠でしたけど。 1964年(昭和39年)に阪神タイガースが劇的な逆転でセ・リーグ優勝を果たしたときに大阪にいたので、今でも阪神ファンです。 そもそもスポーツ用品などで野球帽を買おうとしても大阪では巨人の帽子はどこも売っていません。 阪神、近鉄、南海、阪急という関西の球団ばかりでしたね。      子供の頃は 「欽(きん)ちゃん」 と呼ばれていました。 お笑いコンビ 「コント55号」 がお茶の間を沸かせた時代です。 その一人、萩本金一さんはたれ目で、私もそうだったことから付いたあだ名です。         少年時代の祖父との交流が心に刻まれている。      小学校4年で東京に戻りました。 地元の野球チームに入りました。 ポジションはセカンド。 その頃から三重県伊勢市に住む父方の祖父から生活する上での心構えを聞かされるようになっていたのです。 父はそれなりの地位になっており 「おまえもしっかりしろ」 と。 よほど極楽とんぼのように見えたのかもしれませんね。      中学なると祖父から英語の手紙が来るようになりました。 「学校で英語を学んでいるからこれくらいは分かるだろう。 訳して、英語で返事をよこしなさい」      達筆な筆記体だったので読めなくて難議しましたよ。 辞書を手にしながら読むと、季節の移り変わりのことが書いてあり、「東京は暑いだろうから夏休みに遊びに来い」 といった内容でした。 孫の顔を見たかったのかもしれませんね。 確かに伊勢神宮近くを流れる五十鈴川は清流で、伊勢の隣の二見浦は絶好の海水浴場があり、楽しい思い出がいっぱいです。       大好きな祖父でしたが、父と子供である自分を比較されることに抵抗があったのは事実です。 いつしか、大人になって働くときには父の仕事とは遠い場所にいるだろうと思うようになっていた自分がいました。(日経夕刊)        明日、2回目のイッタビューをご紹介します。                          ツイートこの記事をつぶやく
       交流サイト(SNS) 大手のミクシィは昨年6月に就任したばかりの朝倉祐介社長が顧問に退く人事を発表しました。        30歳の新社長として構造改革を積極的に進めたが、わずか1年で表舞台から去る。 早期退任の裏には、合理化にムチを入れすぎ、不協和音が飛び交った為との指摘もある。        「つながりたいという概念以外のものは全て捨てて良いという気持ちで、ミクシィ再生に取り組んできた」。 朝倉氏は記者会見で、経営陣としての2年弱を振り返った。 非常事態にあったミクシィの経営を任された事のもふれ 「ノーアウト満塁でマウンドを任された投手として、やるべき仕事はやれた。 再生に3年掛かると想定ていたが、1年前倒しで達成できた」 と胸をはった。        新社長となる森田仁基執行役員も 「新たな経営陣とともに1枚岩となって、しっかり舵取りしていく」 と語ったが、明確な成長ビジョンをしましたわけではない。 新体制移行まで時間が有るとはいえ、見切り発車は否めない。        「ぎらついたミクシィを取り戻す」。 朝倉氏の社長昇格の会見でこう宣言したのは、わずか9ヶ月前の昨年5月。 マッキンゼー仕込みの経営手腕を買われ、ミクシィの創業者で前社長の笠原健治会長も 「企業家精神に満ち、1を10に育てる適任者」 と評するなど、ミクシィ再建の切り札として期待されていた。        朝倉氏が取り組んだ3本柱の1つが新規事業の創出だ。 業績回復の立役者となったスマートフォン向けゲームアプリ 「モンスターストライク」 も、社内の打ち合わせルームから生まれた新規事業の1つだ。 お公家集団とまで呼ばれたミクシィにベンチャー精神を取り戻す為、M&Aやりストラにも積極的に取り組んだ。         だが積極的なリストラは思わぬ波紋を呼んだ。 「オレンジのソーシャル会社で、数日前から大規模なリストラが始まっている」。 昨年秋にはこんな情報がネット上で飛ぶ交じったほど。 オレンジをイメージカラーとするミクシィの話として、大きく騒がれた。 再生のためにも大鉈を振るうのは朝倉氏の役目とはいえ、冷静かつ大胆に物事を進める 「プロの経営者」 はミクシィの社風に合わず、疎まれてしまったのかもしれない。        「笠原氏を慕う社員の多いミクシィに中で、朝倉氏は明らかに異質」 との評価は社外からも聞かれる。 再生にためには痛みも必要と危機感を持つ社員がいる一方で、笠原氏が築き上げたミクシィの変化を嫌うそうも少なくからずいただろう。        今回の業績上方修正も、「結婚支援事業の買収やモンスターストライクの成功など、いくつかのラッキーがあった」 と朝倉氏は指摘する。 モンスターストライクを除いた新規事業もまだ未知数だ。 バークレイズ証券の米島慶一アナリストも 「再成長路線の乗れるかは正直疑問もある」 と指摘する。SNSの草分けは再生するのか。 解は見えない。(日経産業新聞)                       ツイートこの記事をつぶやく
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