小売店の店頭や工場、営業現場などでは朝礼を1日の始まりとするところが多い。 朝礼は必要な連絡事項を伝える場であると同時に、上長のスピーチで現場の士気を高めたり、進むべき方向をそろえたりする舞台でもある。 気持ちよく1日のスタートを切るための朝礼のノウハウをまとめた。(日本経済新聞)        ◆ TOTO 身近な話題で盛り上がる      「朝礼こそコミュニケーションを深める場だ」 と話すには、TOTO東京営業センターの猪川精二グループリーダー(48)だ。 東京・渋谷の営業センターではスタッフを40人筒、3組に分けて朝礼を行う。 各グループのリーダーは連絡事項をあらかじめメールで伝えておき、日々の朝礼で確実に伝えることを求められる。       猪川さんは短時間で済まそうと朝礼が事務的になると、雰囲気が盛り上がらないことに気づいた。 この反省からスピーチにはスタッフの関心を引くような話題を繰り込むように工夫。 スタッフや他部門の社員に順番にスピーチさせるようにした。      具体的には営業センターは女性が多い職場だけに、会社の近くにできた新しいお店や美味しい飲食店などを話題に取り上げるようにしたのだ。 すると、スピーチに対する反応が感じ取れるようになり、よく耳を傾けてくれるようになった。 さらに 「あの店に行ってきました」 「是非連れて行ってください」 と言った反響が返ってくるようになり、話す機会が少なかったスタッフとも話すことができるようにもなったと言う。       建材を扱う営業センターでは、営業現場からの無理な発注や顧客からのクレーム対応などストレスが溜まる仕事も多い。 「ちょっとした雑談のネタを提供する」 ことで一緒に働くスタッフと話題を共有し、職場の雰囲気を盛り上げようとしている。        ◆ 大丸東京店 ゲーム感覚で参加意識      メンバー全員が集中して話を聞くような朝礼が理想だが、上長が一方的に話すだけではそうならないことが多い。 大丸東京店で従業員の教育を担当する細谷恵子さんは、各売り場の朝礼の司会をして回る際に必ず2人1組でやるゲームを交える。 「ゲームをやって参加意識を持ってもらう」      大丸東京店の朝礼は、金曜日を覗いて午前9時45分から開店時刻の堂10時前まで売り場ごとに開く。 その日の連絡事項を伝えた後、ゲームを始める。 ゲームは20種類ほど。 その一つは 「お尋ねゲーム」 は2人1組で、ペアの1人が質問し、もう一人が 「はい」 か 「いいえ」 で答えるゲームだ。      お題が 「昼に食べたい料理」 なら答える側にその料理をイメージしてもらい、問う側は質問を繰り返して何を食べたいかを当てる。      正解にすばやくたどり着くコツは 「大きなジャンルから質問していき、徐々に内容を絞っていくこと」 で、来店客の好みを探る際に役立てると言う。       朝礼のしめはあいさつの連呼だ。 「いらっしゃいませ。 ニッ」 「ありがとうございます ニッ」。 語尾わざと 『ニッ』 を加えさせ、笑顔の接客を意識させる。        ◆ 話す前の第一印象 大事      スピーチではまず姿勢に気をつけたい。 聞き手は第一声の前に、既に話者への第一印象を形成している。 猫背やへっぴり腰ではどんなに良い内容の話でも伝わらない。 逆に、胸の貼りすぎや、あごの上がりすぎは不遜に見える。 ひざの力を緩め、力を抜いてから立ちなおし、しっきりとした姿勢を維持したい。       朝礼で反すなら、朝早くからの準備が必要だ。 声が起きるには3時間掛かるとされている。 時間を逆算し、意識して声を出しておくべきだ。 声を出すと、身体が温まり、気分も明るくなる。      スピーチを始めたら作り笑顔は禁物だ。 口元だけ笑顔は聞き手に見分けられてします。 ペットや好きな風景などを頭に思い浮かべると、緊張している表情は自然と明るくなる。       聞き手に対してアイコンタクトすることも有効だ。 しっかり聞いてくれる人を数人見つけ、「ありがとう」 と思いながら目線をやる。 相手がうなずけば自らの持ちネーションも上がるし、同調効果が働き、他の人の顔も上がる。(テレビ朝アスク講師・元アナウンサー)                                ツイートこの記事をつぶやく
       シンガー・ソングラーター 杉田二郎氏のインタビュー記事が、日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに掲載されてます。今日は2回目をご紹介します。        実家は京都市内の宗教協会。 宗教行事や日本古来の音楽の中で子供時代をすごした。      実家では春夏秋冬、さまざまな行事があります。毎日、朝から参拝の人が訪れ、幼い頃からおとなになじって朝6時から掃除をし、6時半のお参りの後、父(道雄氏)の教導(講話)を聞き、7時に食事をして学校に良くと言う生活を、中学校3年まで続けました。      昔はずいぶんとやんちゃで、姉の話では幼稚園は退園になったようです。 「杉田君が来るなら幼稚園に行かない」 と云う子供が大勢いて急遽保護会が開かれ、僕が辞める羽目になりました。 「僕は非常に苦しい人生のスタートを切っている」。 後年、ラジオの深夜放送で話しましたが、やんちゃな性格は小学校も同じです。      小学校の頃から運動は得意でしたが、特に野球が大好き。 近所に甲子園の強豪、平安高校があって、放課後はよく野球部の練習を見に行きました。 おやじは旧制京都2中で野球部に所属し、同志社大ではラグビーもやったスポーツマン。 その影響もあったでしょう。      ひそかな悩みがおねしょでした。 6年生の修学旅行で伊勢へ行くんですが、おねしょがばれたら大変だ、と心配で仕方が無い。 一泊の旅でしたが。 僕も眠らず、みんなを寝させまいと夜は枕投げなどして騒いでしたんですが、いつの間にか寝込んでしまった。 翌朝、そっとお知りの下に手を入れると、ぬれていない。 ホッとしました。 これは大きな自信になりました。      家は雅楽に縁が深く、笙(しょう)や篳篥(ひちりき)などの音色に囲まれて育ちました。 親父は琴も引くし、小唄も民謡も上手かった。 姉が笙も吹ける。 叔父は雅楽もやるし、ジャズが好きでした。 お供え物を頂くお直会では、演奏を聞いたり、芸妓さんが三味線に合わせて舞ったりするのを 「おとなの世界は面白いな」 と見ている子供でしたが、音楽には関心が無かったですね。        復興のつち音を聞きながら、中学時代に 「山の向こう」 の世界を垣間見る。      京都は山に囲まれていますが、小学校は伊勢へ行った以外は自分の記憶では余り京都の外へ出たことが無い。 自宅の屋根に上って大文字役なんかを見ながら、山の向こうはどうなっているんだろうと考えていました。 一方、戦災を逃れた京都にいても、名神高速や新幹線の工事が始まり、復興の凄い勢いが伝わってきました。       中学では運動部には属さなかったが、陸上競技も大好きで、京都の区の大会に走り幅跳びの選手として出場しました。 クラブ活動は弁論部です。 家を継ぐなら人前で話す訓練が必要という親父の意向もあったでしょう。 国電や地下鉄、南海電車を乗り継いで和歌山まで弁論大会に出掛けました。 運転席に入れてもらい、眺めた山の向こうの世界に感動しました。      中学3年の修学旅行は東京です。 当時は専用列車で、網棚に寝るやつがいたり・・・・。 帰りの電車のデッキでガールフレンドと話していると 「私、就職するの」 と言います。 「一緒に高校へ行きたかった」。 当時、中学氏卒業後に就職する子が大勢いました。 僕よりはるかに大人びていて、人生に対する覚悟が違うなと驚きました。        中学時代の骨折を機にスポーツはあきらめ、「絶対に無理」 と言われた立命館高校へ入学する。      中2の球技大会で、バスケットボールの試合中に右ひじを骨折しました。 ギブスをはめたままで、利き腕の右手で字がかけない状態が受験まで続きます。 平安高校はあきらめ、立命館か公立へ行こうと考えましたが、先生は 「杉田、立命館は受かるはずが無いから辞めておけ」 と言います。 でも4つ上の姉が勉強を教えてくれたし、模擬テストの成績も悪くなかった。       不思議と試験では姉におそわったことばかりが出たんです。 左手でゆっくり書くしかないから、間違ってはいけないと一生懸命でした。 合格発表の日、僕の番号があった。 先生が 「本当に受かったのか?」 と心じれられない様子なので不安になったほどです。      立命館への通学は路面電車で1時間近く掛かるので、朝の掃除や講話を聞く生活は終わります。 待っていたのはカルチャーショックと音楽の世界でした。                         ツイートこの記事をつぶやく
                杉田二郎        今週はシンガー・ソングライターの杉田二郎氏が 「人間発見」 のコーナーにインタビュー記事が掲載されていましたからご紹介します。        戦後生まれの第一世代。 「戦争を知らない子供たち」 「男どうし」 などで知られるシンガー・ソングライターの杉田二郎さん(67)が今年、デビュー47年を迎える。 その杉田さんが昨年秋、初めて病気で仕事に代役を立てたことはあまり知られたいない。      1968年4月、大学生のときにアマチュアの初代ジローズで 「あなただけに」 「マイ・ハート」 でレコードデビューし、47年を迎えます。 しかし、昔からあったのですが、肝臓に水が溜まる肝のう胞が巨大になり、黄疸も出たので昨年9月、イルカさんのラジオ番組出演を断ることになりました。 変わって同じプロダクションの堀内孝雄氏に出てもらったのですが、僕が病気で仕事に穴を開けたのは初めてです。      僕は昔の人間なんだと思いましたね。 団塊世代(47~49年生まれ)の1つ上ですが、待っている人がいると思うと断れない。 昨年12月1日に福岡のライブを終え、12月上旬に本格的に手術しました。 10月以降はお腹に穴を開けて管を通す応急処置を施したまま必死で歌いました。 振り返っても幼い頃、アイスキャンディーにあったて父親と一緒に入院したことがあるくらいで、大きな病気をしたことは無い。 今は少し休憩を頂いていますが、桜が咲く頃には絶好調になる予定です。        同じ46年生まれ、精神科医で作詞家の北山修さんと一緒に作った曲も、「戦争を知らない子供たち」 (70年) を含め、100曲を超えた。      昨年11月の 「きたやまおさむのレクチャー&ミュージック」 では、彼が講演し、僕が歌いました。 彼の話を聞いていると、人間のものの見方、考え方を精神科医としてきちんと分析していることがわかって面白かった。 彼はどこか底辺でつながっているのではと最近良く感じるんです。 彼の父は内科医で、人の命にかかわり職業。 ある日 「ご臨終です」 と言わなければならないこともあったと思う。 一方、私の父は宗教家で、人の死後の世界に関わり、人々の日常の喜怒哀楽を背負うと言う姿を、子供の頃から見て育ちました。      若い頃、散々議論しながら一緒に楽曲を作ってきた2人ですが、「戦争を知らない・・・・」 が大ヒットし、我々世代の代名詞と呼ばれるようになり、賛否両論の反響の大きさを受け止めかねてお互い傷ついたりしました。 しかし、その後も僕の転機の節目節目に、彼がいてくれた気がします。        その北山さんが、杉田さんのデビュー40周年記念アルバムでは、還暦を祝う 「何度でも二十歳(はたち)」 や 「前向きに倒れてみたい」 などを作詞した。      アメリカンフォークに出会い、素人の自分でも思いを歌っていいんだという現実に衝撃を受けて、僕の音楽生活が始まりました。 ある時期から北山氏は精神科医の道を歩みだし、ぼくは 「戦争を知らない・・・・」 の呪縛を逃れるようなタイミングで、父の世界を理解しないことに済まされないと音楽を離れて修行をした時期ある。       その後、ロンドンにいた北山氏を訪ねて、一緒に 「男どうし」 などを作り上げ、帰国後に沖縄のコンサートで会場から 「戦争を知らない・・・・」 の大合唱が起き、僕はやっと呪縛から逃れることができた。 また、年を経るにつれオリジナルにこだわらず、自分の好きな楽曲を歌うボーカリスト、シンガーの道も切り開けました。      今は好きな曲を自由に歌いたい気持ちがふつふつとわいてきます。 しかしながら、僕らも、生まれ来る新しい生命たちも、永遠に 「戦争を知らない子供たち」 であってほしい気持ちでいっぱいです。 自分たちに子供が生まれ、孫もでき、新しい世代に向けたメッセージができました。 「前向きに倒れてみたい」 の歌詞は、「朝目ざめれば 足から腰 痛みが走りぬけて 新聞読めば何もかもが かすんでよく見えないな」 で始まります。 「変わらないのは気持ちだ あの日ままで」・・・・。 そして最後のフレーズは 「ふらつき息が切れても 前向きに倒れてみたい」。 年は取りましたが、ゆっくりと前のめりに歩きたい、と云うのが僕の気持ちです。                        ツイートこの記事をつぶやく
       インターネットで通販や銀行、ゲームなど複数のサイトに同じID、パスワードを使い回している利用者を標的とした不正ログイン被害が、2013年に68万6470件に上ったことが、情報セキュリティー大手、トレンドマイクロの集計で分かった。        特定のサイト運営会社から流失したり、大規模な被害例では、IT大手サイバーエージャントが運営する会員制ブログサービス 「Ameba(アメーバ)」 で約24万件の不正アクセスがあった。        通販サイト 「セブンネットショッピング」 では、最大で約15万件のクレジットカード情報が流失した可能性がある。        個人認証の為に入力必要なIDとパスワードは本来、利用者本人しか知らない為、第三者が不正にログインできない仕組みになっている。        しかし、ネットの利用が広がるにつれ、同じパスワードなどをどのサイトにも使う人が増えてきた。 こうした利用者の場合、第三者がいったん盗めば、別のサイトにも本人になりすまして容易にログインできる。        この結果、個人情報を閲覧されたり、勝手に買い物されたりする被害が拡大されやすい。 トレンドマイクロは、個人情報を狙う最バー攻撃が広がる要因になるとして安易なID、パスワードの設定に警鐘を鳴らしている。                     ツイートこの記事をつぶやく
       東京都心が来年度から “寒く” なる可能性がある。 気象庁が東京・大手町の気象観測店を50年ぶりに移転する方針で、約1キロ離れた公園にある新たな観測点は現在地より最低気温が低めになるとみられるためだ。 新観測点は試験運転中で、気象庁は 「気象データにどのような特徴があるのか調べたい」 としている。        新たな観測点は、日本武道館や科学技術館などがある北の丸公園(東京・千代田区)の木々にかもまれた芝生の一角。 温度計や雨量計が設置され、気温や湿度などリアルタイムで表示するモニター画面もある。        気象庁の本庁者が東京都港区の小学校跡地に移転することが2008年に決まり、1964年から本庁者敷地内にある観測点も移ることなった。 「自然に恵まれ、将来も近隣に建物ができる恐れがほぼ無い」 との理由で北の丸公園を選んだという。        移転による気象データへの影響を見極め、2011年8月から試験運転を開始。 大手町と北の丸公園の2013年12月までの月別の平均最低気温を比べたところ、どの月も北の丸公園が低く、最大で1.8度も下回った月もあった。         立正大学の吉崎正憲教授は 「大手町の観測点はアスファルトの道路やビルなどが周囲にあり、熱しやすく冷めにくい特徴がある。 緑の多い北の丸公園のほうが相対的に気温が低くなる」 と説明する。        一方、つく別の平均最高気温は最大0.6度の差にとどまった。 北の丸公園が大手町を上回った月も10回あった。         試験運用は2014年7月までの3年間で、気温、湿度、雨量、気圧、積雪のデータを観測している。 気象庁によると、観測点の移転は時々あるが、移転前に試験運用するのは始めて。        担当者は 「東京都心は日本を代表する観測点。 国民の関心も高いだけに、移転による影響を正確に把握するように努めている」 と説明する。        気象庁は試験運用が終わった後、正式に東京都心の観測点とする方針。 担当者は 「新旧の観測点の気象状況に戸のような違いがあるか、今後データ分析して発表したい」 と話している。                         ツイートこの記事をつぶやく
               お花見      NIKKIプラス1 に 「お花見楽しむ鉄道や船」 という特集記事が掲載れていましたからご紹介します。        鉄道の部門    第1位は 「嵐電・北野線」  鳴滝~宇多野(京都市)    ◆ ライトアップで幻想的    京都市内を走る嵐電。 その桜の名所が 「嵐電桜のトンネル」 だ。 線路の両脇に70本ほどのソメイヨシノの枝を連ねる桜並木が200メートルも続き、車窓からなげめる景色は圧巻。 1926年(大正15年)3月の北野線前線を開通を記念して植えられた桜だ。 満開の次期になると、車内等を消した 「桜の幻想的な景色が堪能できる」、「ちょっとおとなのたびが楽しめる」。    3月中陣から1っ花月ほどの期間は車内を桜の花で装飾した 「桜電車」 が1両のみ登場する。 乗られたらラッキーだ。 少し足を伸ばせば仁和寺や太秦なども有り、街歩きとともに楽しみたい。 「京都らしく周辺には神社や寺が多く、非日常の雰囲気を味わえる」。        第2位は 「肥薩線」  大畑 (熊本市)    ◆ SLやレトロな内装    開業100年の歴史を持つ鉄道は熊本、宮崎、鹿児島を通る。 急流の球磨川や自然豊かな渓谷などと一緒に桜を眺められるのが魅力だ。    一番の見所は大畑(おばこ)駅。 ループ式の線路なのに、急な斜面を上り下りする為のスイッチバックが有り、その東部に駅舎がある。 木造建築の駅舎は明治時代完成したもので、素朴な雰囲気。 近くには梅や桜の名所 「人吉梅園」 もある。 白煙とともに駆け抜ける 「SL人吉」 やレトロな内装が楽しめる 「いさぶろう・しんぺい」 など  「人気列車が通る路線でもある点がよい」。        第3位は 「東北本線」  大河原~船岡 (宮城県)    ◆ 車窓の直ぐそばに     線路の横に流れる白石川沿いに8キロもの桜並木が続き、「一目(ひとめ)千本桜」 と呼ばれる。 「思わず車窓から手を野なしたくなる距離に迫ってくる」。 開花時期は列車が徐行運転する。    船岡城址公園の付近は 「パノラマ状に桜並木が広がる」。 船岡駅で降りて川沿いを歩くと桜とともに残雪の蔵王連峰が美しい。 例年見ごろは4月中下旬。        第4位は 「いすみ鉄道」  大原~上総中野 (千葉県)    ◆ 花畑進むよう    房総半島の里山を進む鉄道の沿線全てが菜の花で黄色く染まる。 見所は国吉~大原区間で 「乗客は花畑をかき分けるような感覚」。 ムーミン列車も愛らしい。 小湊鉄道と接続していて房総半島を横断できる。        第5位は 「中央本線」  新府~穴山、勝沼ぶどう郷 (山梨県)    ◆ 一面ピンクに     甲府盆地を見下ろす活沼ぶどう駅は 「ホームの直ぐ下に桜並木が広がる」。 新府駅と穴山駅の区間は 「桃源郷と言うほど桃の花で一面ピンクに染まる」。        第6位は 「津軽鉄道」  芦野公園 (青森県)    津軽五所川原鉄道から津軽半島を北に走るローカル鉄道。 芦野公園駅付近では列車が桜のアーチをくぐるよう。 「途中下車して太宰治ゆかりの地を歩くのもいい」。 花見の時期は 「走れメロス号」 やストーブ列車でさくら弁当を楽しみたい。         第7位は 「大井川鉄道」  家山 (静岡県)    SLが原則毎日、新金谷~千頭間を往復する。 「日本の原風景を思わせる 桜や茶畑が美しい。 最大の見所は家山駅で、レトロな駅舎が桜に良く映える。         第8位は 嵯峨野観光鉄道  嵯峨~亀岡 (京都府)    川くだりの船も有名な保津川沿いの約7キロを25分で走る。 ディーゼル機関車に引かれる5両編成のトロッコ列車は見た目もかわいらしい。         第9位は 「樽見鉄道」  谷汲口~樽見 (岐阜県)    日本三台桜の一つ、樹齢1500年を超す淡墨(うすずみ)駅ホームや駅の周辺も桜がいっぱい。 4月1~15日は 「桜ダイヤ」 で増発する。         第10位は 「のと鉄道七尾線」  能登鹿島 (石川県)    能登半島を走る第三セクター鉄道。 能登鹿島駅は通称 「能登さくら駅」 で、「駅を覆うに100本の桜が咲き誇る」。 4月は、夜間はぼんぼりで照らイベントが毎年ある。        船から    第1位は 「隅田川ライン」  東京都     ◆ スカイツリーと相性抜群    隅田川沿いの桜を 「陸との喧騒から逃れ、ゆったり楽しめる」 遊覧船。 「桜と東京スカイツリーの相性は抜群。 下町の花見を味わえる」     花見シーズンは昼間の定期便のほか、振袖姿の女性が同情する夜桜船の運航し 「江戸の舟遊びを感じられる」。         第2位は 「北上川観光遊覧船」  岩手間北上市    ◆ 300匹のこいのぼり     弘前(青森県)、角館(秋田県)と並ぶ 「みちのく三大桜名所」 で北上川沿いの約1万本の桜並木が美しい。 シーズン中は川を横断する形でたちで300匹のこいのぼりが空を泳ぐ。 渡し舟や観光馬車も。        第3位は 「柳川川くだり」  福岡県柳川市    水郷の街、柳川の名物 「どんこ舟」 で 「船頭さんの舟歌を聴きゆったり桜を堪能できる。 4月3日まで柳川雛祭りを開催。        第4位は 「海津大崎桜花見船」  滋賀県彦根市    琵琶湖岸に4キロほど続く桜並木が美しい。 「湖面と桜のコントラストは見事」         第5位は 「大川さくらクルーズ」  大阪府    6社共同運航で多いときは5分間角で就航し、大川沿いの桜と大阪城を眺められる。          春の訪れはまだ遠いが、花見を楽しむ旅行は今から計画しておきたい。 近所の花も良いが、列車や船に乗って咲き乱れる花をめでるのも趣がある。         日本気象協会に酔えば今年のソメイヨシノの開花予想は東京が3月29日ごろで大阪府が27日ごろです。        東京だと上野公園、千鳥が淵、靖国神社に目黒川沿いあちこちにいけるな~~                         ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーのセブンーイレブン社長 井坂隆一氏のインタビュー記事のご紹介は今回で最後のご紹介になります。        1990年代後半から弁当、おにぎり、惣菜類の開発の責任者となる。      新商品がお店に並ぶ為には、役員試食でOkが必要です。 認められないと開発は振出です。 この試食会で11回連続して鈴木敏文会長から 「駄目、美味しくない。 やり直しだ」 と言われた商品があります。 「冷やし中華」 です。 当時の駄目出し回数最多の不名誉な記録でした。 何度も突き返されると、何が美味しくないのか、全く分からなくなってしまいました。      これでは開発のリーダーとして方向性を打ち出せません。 実際に作っている取引先にも迷惑が掛かります。 そこで鈴木会長に 「お好きな冷やし中華のお店を教えてください」 と頭を下げ、ある有名点を教えてもらったのです。      早速、開発メンバーとその店に何度か食べに行きました。 さすが有名店の味です。 美味しさに秘密は何か。 どうすれば分かるか考えました。 思いついたのは 「美味しさの見える化」 です。 麺の場合、グラフにして縦軸の硬さ、横軸の弾力とします。 それを知る為には名店の冷やし中華が必要です。 駄目もとで料理長に事情を話すと快く麺とつゆを分けてもらえたのです。 コンビにとめ移転では競合しないと思われたのでしょう。       開発メンバーの中の製麺会社の人から硬さや弾力を計測する機械をお借りして分析開始です。 すると明らかに自分たちの麺と名店の麺では数値が違っていました。 データを下にゼロからやり直した末にようやく鈴木会長からOKが出て、商品化にこぎつけることができました。       実は友人やメーカーの皆さんからは 「コンビにだからしょうがないんじゃない」 と言われることがありました。 こちらは一生懸命やっているのに、そう言われると悲しかったです。 だから 「うまい」 と言わせたかった。 部下とは 「 『しょうがない』 と言われないようにしよう」 と誓い合いました。        名店の味をベンチマークにして商品開発を加速させた。      料理専門家を招き、美味しさの研究を全社的な取り組みにしました。 先生たちから研修を受けていたとき、高校時代のことを思い出しました。 友達が遊びにくると母は決まってカレーでもてなします。 「井坂の家のカレーは何時も美味しいなぁ」 とみんなが褒めてくれましたね。 当時は母も喜び、自分も誇らしいと思っただけでしたが、その理由が先生との会話で分かりました。 「カレーは玉ねぎに始まり、玉ねぎに終わる」。 玉ねぎをあめ色になるまで炒め続けるのが決めてだったのです。 美味しさにそれなりの理由があることを知りました。      ただ家庭でも名店でも料理は鍋や釜で一食一色作りましが、私たちは何千食という単位で作ります。 家庭や名店の味を再現するためには調理器具の改良も欠かせません。 大量の玉ねぎを切って大型調理器具の試作機の前に立っていたときは涙が止まりませんでしたよ。 試作機を何度も作り直してようやく大量のあめ色の玉ねぎの出来上がりです。 おかげで美味しいカレーが作れました。      大量に食材を使用することで食材調達のコストが差上がり、計画的な調達は効率化に役立ちます。 一流を目指していくことに 「コンビニだから」 という制約が無い事を示しました。        2009年に同社初の生え抜き社長に就任する。      コンビニ業界の飽和説がささやかれていますが、私には理解できません。 高齢社会、女性の社会進出、単身世帯の増大、買い物弱者の存在、上質消費の拡大など世の中大きく変化しており、それに対応していくことで成長を続けること可能だと確信しているからです。 2009年秋からセブンイレブンのキャッチフレーズを 「近くて便利」 にしたのも、こうした社会的変化を背景にしています。      生活インフラとしての役割を担い、先日の大雪で交通が寸断された地域にヘリコプターで生活物資を届けました。       これからはもっと早いスピードでお店の中身は変わっていくでしょう。 「変わることに億劫になっていないか」 と自問自答しながら経営に携わっていきます。 今は役員会で試食する側になりましたが、商品開発で妥協しない姿勢は変わらないです。                           ツイートこの記事をつぶやく
       セブンイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のご紹介も今日で4回目となります。       29歳のときに、弁当や惣菜の配送体制を抜本的に改革する担当となる。      1987年、鈴木敏文社長(当時)が全社に大号令をかけました。 「3便をやるぞ」。 当時の弁当や惣菜は専用工場から1日に2回配送していましたが、それを3便にするというのです。 弁当などの商品開発の仕事をしていたので、私は至急計画を立てるように指示が来ました。      工場から猛烈な反発が出ることは当然で、やったことの無い24時間フル稼働になるからです。 3便のメリットを説明し、納得してもらうしかありませんでした。 「我々は1日に3回食事をしています。 そのサイクルにあわせて鮮度の高い美味しい商品を届けることは理にかなっています。 今のままだといつまでたっても外食産業や家庭の味には勝てません」 とお願いする日々です。       3便体制だと朝食、昼食、夜ご飯の3色の生活シーンにふさわしいメニュー開発も求められます。 いろいろなところに目配りしながら仕事を一つ一つ積み上げていくことの楽しさも知りましたね。 美味しくなった商品は良く売れました。 工場の利益にも繋がり、従業員の給料も上がります。 時間が掛かりましたがやってよかったです。        ハワイへの赴任を命ぜられる。 現地の 「セブンイレブン」 の立て直しだった。      ハワイのお店はアメリカのサウスランド社(現セブンイレブン・インク)が運営していたのですが経営が芳しくなく、日本のセブンイレブンが89年に救済に乗り出したのです。 日本で商品開発、物流、店舗は衣鉢などいろいろな仕事を経験してきたからでしょう。 「君が、ちゃんとやってこい」 とハワイ勤務の辞令が下りました。 90年春のことです。 鈴木社長が 「進駐軍になるな。 一緒に汗を流せ。 お客様とマーケットを素直に見て、オペレーションを組み立てろ」 と言って、送り出してくれたのを覚えています。      ハワイのお店は、缶ビールなどを山積みしてディスカウントして売っていました。 商品を売って利益を得るというよりも、メーカーに売り場スペースを売ってもうける場所貸し業のようでした。 サンドイッチはお店で作り、品質はまちまち。 日本のように専用工場はありません。 「これは本当に位置から作り直さないといけない」 と思いましたよ。        日本のセブンイレブン流をハワイに導入するのに苦労する。      ますは、サンドイッチをつくってくれる工場探しから始めました。 何とか機内食の工場にレシピを持ち込んで作ってもらったら、わずか数ヶ月で取引が打ち切りになりました。 「注文数が少ない。 各店に配送していたら非効率で割に合わない」 の一点張り。 再び、振出です。 陳列棚も多様な商品が綺麗に入るように変更し、各店舗にあわせてレイアウトの設計をしました。       やはり、日本からやってきた人物は警戒されます。 その空気が分かったのはクリスマスパーティーでした。 「仕事は大変だけど、必ず実を結ぶよ」 と簡単にスピーチをして大空くなビートルズの 「オール・マイ・ラブング」 を歌うと、みんながステージに上げって大合唱となりました。 打ち解けた瞬間でした。      現場にやる気が出てきたのが手に取るように分かりました。 「イサカさん、売れる商品を発注するには時間帯別の販売動向を知らないと発注の精度が高まらない」。 この言葉を聞いたとき気づいたことがあります。 今、ハワイで取り組んでいることは日本のセブンイレブンが創業の頃から築き上げてきた業務・システムの設計思考に繋がっていることだったのです。 非常に貴重な経験でした。        ハワイの再生に手ごたえを感じ始めた頃、業績不振の本家アメリカのセブンイレブンを買収することを知る。      私がハワイで働いていた時にはすでに本国の救済が視野に入っており、ハワイで先遣隊として再生に着手し、その実績を基に本国の救済策を練ろうとしていたのかもしれません。 当時、アメリカでは 「もはやコンビには時代遅れ」 と言われていました。 しかし、どうでしょうか。 便利さを追求する本来の店づくりをしたことでアメリカも再生ができました。                           ツイートこの記事をつぶやく
       今日で3回目になります。日経夕刊の人間発見のコーナーにセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のイッタビュー記事をご紹介します。         就職活動でセブンーイレブン・っジャパンに関心を持つ。      父から上場企業の業績や株価がコンパクトにまとめてある分厚い本を手渡されました。 「これを見て会社選びの参考にしなさい」。 就職活動を控えた1979年夏ごろです。 当時はカタカナの社名が少なかったような気がしました。       証券会社に勤める父とあまり関係のなさそうなメーカーを探して会社訪問のスタートです。 この本はセブンーイレブン・ジャパンは載っていませんでした。 非上場会社だったからです。 でも、何か気になっていました。 まだ生鮮食品は置いておらず、若い人が好みそうなファストフーズ、飲料、お菓子、おつまみなどが綺麗に並んでいます。 いつの間にか家に近くに 「セブンイレブン」 の看板を掲げる店が数点できました。      こんな小さなお店の集積が新しい産業になるかもしれないと、おぼろげながら思いました。 興味がわいて調べてみると、スーパーのような直営店方式ではなく、フランチャイズチェーン方式による出店方式であることも知り、「こんなやり方があるんだ」 と感心したことを覚えています。       上場会社でもないし、父の仕事とは相当離れていることもひかれましたね。 東京の千代田区三番町にあるセブンイレブンの本社(当時)で面接を受けて何とか内定を貰い、父に報告すると 「ああ、もう直ぐ上場する会社だ」 と。 確かにセブンイレブンはその年10月に東京証券取引所第2部に上場予定でした。 当時としては創業から上場までの最短記録を更新したことが話題になっていました。        担当した福島県の店舗で仕事の意義を知る。      入社すると数年間は店舗運営に携わります。 入社した年(80年)の12月、東北地方は市民生活に支障をきたす穂での大雪に見舞われました。 有名なクリスマス豪雪です。 セブンイレブンでもおにぎりやお弁当などを絶やさないように関東地区からも商品を運び臨戦態勢です。 いつもなら、私たちがお客様に対して 「ありがとうございます」 と接客しますが、こうした状況では逆になるのです。 「ありがとう 助かった」 お客様からそう声をかけていただき、初めて小売業に携わる喜びを実感しました。 新人時代の貴重な体験です。       仕事にも熱が入ったのは言うまでもありません。 ところが大半の同時社員が店舗研修を終えて、店舗の経営相談員の研修を受けているのに自分はまだその段階にいけなかったのです。 理由は帳簿上の在庫と店頭にある在庫が一致しなかったからです。 「品減り」 と呼ばれ、店舗から発注した商品が正確に店舗に届けられたか検品体制が充分でなかったり、清算時も正確にレジ打ちが出来ていなかったりしたことが理由です。       24時間営業の店には20人ほどが入れ替わりで働いています。 全員に逸品逸品を大切に管理する店舗運営の仕方を理解してもらわないと 「品減り」 は解消されません。 セブンイレブンやイトーヨーカ堂には 「単品管理」 という言葉が有り、その大切さを痛感しました。       勤務していた 「セブンイレブン虎丸店」 (福島県郡山市)はセブンイレブンが本家区的に24時間営業を開始したお店です。 最終のバスの時刻をスギ、ヒット小一人いない場所でしたが真夜中でも自転車や自動車で買い物に来て、24時間営業が日本でも受け入れられることを教えてくれた歴史的な店舗です。        仙台地区で新規出店の担当になる。      なんと 「品減り」 がなくなり、次のステップに進めました。 しばらくすると仙台地区に進出することが決まり、そのメンバーとして仙台常駐です。 ビジネスホテルに長期予約を入れました。 ところが商品陳列に始まり、従業員の教育など目の回るような忙しさです。 1店が順調に立ち上がると次の新店の立ち上げが待っています。 2ヶ月ほどそんなダンボール生活が続いたでしょうか。 今では有り得ない働き方ですが、懐かしい重いです。      只東日本大震災で被災した店舗に中には自分がお手伝い店も含まれていて心が痛みました。                          ツイートこの記事をつぶやく
       昨日から日経夕刊の 「人間発見」 にセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のインタビュー記事をご紹介していますが今日は2回目です。        高校で生徒会の議長になり所属するテニス同好会を部に昇格させた。      中学でも野球部に所属して白球を追いかける日々です。 レギュラーポジションを得ることはできませんでしたが、3年間の部活生活は充実していましたよ。 足が速かったこともあり、陸上の大会にかり出されました。      高校では公式テニスの同好会に入り、今度は黄色いボールを追いかける青春の日々です。 グラウンドは広くてテニスコートが4面もあり、練習環境は恵まれていると思ったのが入会の理由でした。 ところが入会してつかの間、同好会がコートを使用できるのは週に1回だけだったことを知りました。 毎日、コートで練習したのは運動部である軟式テニス部。 「不公平だ」 と思いました。 メンバーは同好会のほうが多かったのです。      そこであることを思いつきました。 生徒会の議長に立候補してテニス同好会を部に昇格させる世に働きかけることにしたのです。 議長に当選し、部への昇格を議題にのせました。 同好会でも都の大会に出場するなど実績がありましたから、その資格は充分にあると考えたからです。       同好会の活動は自分が良く知っています。 同好会の幹部にあらかじめ事情を含めておいて会議で質問しました。 「対外活動はどんなものがありますか」 と聞くと、同好会の幹部が 「都大会に出ています」 と。 すると私が 「それはすごいじゃない。 真剣に活動していますね」 といった具合です。 自作自演の何物でもありません。 見事に部に昇格できました。 いろいろな人に事情を話して行動をしてもらう楽しさ、大切さを学んだ気がします。      高校は東京大学駒場後者に近く、学生運動も活発だったようです。 私が通ったときには下火になっていましたが、学生運動の看板や後者にペンキで描かれた独特の文字が名残としてありました。        青山学院大学に入学し、スキーに熱中する。      高校時代に取った 「メイド・イン・USA・カラログ」 というライフスタイル雑誌に大きな影響を受けましたね。 それまでのスキーといえば山岳スキーが一般的でしたが、著名なスキー所でアルバイトをしながら長期滞在するスキーバムと呼ばれる人たちが紹介され、興味を引きました。      ちょうど若い人たちにスキーブームが沸きあがろうとしていた次期です。 深夜放送ではユーミン(松任谷由実)の曲が流れ、「スキー場に淡い舞台があるんだなぁ」 と憧れていました。       子供の頃からスキーは好きだったので大学では本格的にスキーをやろうと決めました。 白馬、白岳、志賀などのスキー場を年間80日くらいは山ごもりしていたと思います。 かなりのめりこみ2年生でスキー1級を取り、大学盛況主催のスキースクールに参加して昼間はアルバイトで初心者を教え、それが終わると今度は指導員から特訓を受けました。       ここまでスポーツのことばかりだったのでキャンパスライフについても少しお話します。 大学は法学部に入り、ゼミでは表現、言論の自由の根拠になっている。 「憲法21条」 について学びました。 卒論は公正原則(フェアネスドクトリン)についてです。      後講釈になりましが、この卒論はセブンイレブンのビジネスモデルに通じるところがあります。 セブンイレブン本部と加盟タンとがフランチャイズ契約で対等の関係であることが盛り込まれます。 其々の役割を果たすことでお店の運営が円滑に行くのです。       当時、大学には著名人もいました。 サザンオールスターズの桑田圭祐さんを学食で見かけ、キャンパスを歩くと女優の名取裕子さんは存在感がありましたね。        小さなお店に関心を持つ。      家の近所に夜11時まで営業する 「セブンイレブン」 がありました。 日が暮れると真っ暗になる住宅街に暖色系の証明が生えていたのが印象的でした。 まだ、この店がどのように運営されているかなど知るよしもありません。 ただ、自分のような若者が食べたがる商品が沢山並べてあったのを記憶しています。 壁に貼ってあるアメリカをイメージした明るいポスターも気に入りました。 「スーパーではい新しい形の店なんだ」 と思っていました。 これが 「セブンイレブン」 との出会いです。(日経夕刊)                                   ツイートこの記事をつぶやく
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