村上氏        日経流通新聞 「仕事って何」 のコーナーにリブセンス社長 村上太一氏のインタビュー記事が掲載されていたからご紹介します。        アルバイト情報などインターネットサイト運営会社、リブセンスの村上太一社長は大学1年生で起業、史上最年少の25歳で株式上場を果たした。 記録に注目が集まりそうだが、にこやかな笑顔の裏に努力を重ねてきた。 同世代に対し、会社に頼ることこそリスクと訴える。        --早大1年生だった2006年、リブセンスを設立しました。 自身のアルバイト探しの過程で、不便さを感じたのがきっかけでしたね。       「祖父が経営者だったこともあり、早くから起業を目指していた。 ネット上にアルバイトの募集広告を無料で掲載し、成功報酬を貰うという事業モデルを考案した。 募集広告は飲食店など店頭に張られ、ネット上では少ない。 場所など検索機能を付けて、求職者と企業が効率よくマッチングできるようにした」       「早大のベンチャーコンテストで優勝したが、2006年の起業後は大変だった。 テレビで過労死のニュースを見て、社会は過酷だと覚悟していたが、実際は想像よりはるかに厳しいことが多かった。 先ず、サイトを立ち上げても利用者が全く増えない。 当時を思い出すと甘かったのだが、良いサイトを作れば自然に人は集まると思っていた。 私は料理が好きだが、自分の作ったのもはうまく思えてしまうのと同じだ」        --どうやって突破口を開きましたか。      「何故利用者が増えないのか、仮説と検証をひたすら繰り返した。 不安を解消するには行動するしかない。 デザインが駄目なら、お金をはたいて外部に委託するなど試行錯誤を重ねた。 経営は、頑張れば成果が出る受験勉強と違い、一本道とは行かない。 設立当初は不眠不休で、創立メンバーも極限状態になった。 当社のロゴはしずくの形で、『雨だれ石をうがつ』 を示している。 日々の積み重ねが勝つという意味を込めた」        --安定を求めて大手企業を目指す若い人が増えています。 同じ世代としてどう思いますか。      「日本人は空気を読むというか、良くも悪くも右に倣えとの傾向がある。 周りが大手なら自分もそうしようと。 私は究極の安定志向で、会社に頼るほうが不安だ。 40年くらい働くとして、その間に企業がどうなるかわからない。 自分自身にスキルをつけていくことのほうが、安定につながるのではないか」        --どんなスキルが必要でしょうか。      「語学力など資格と思われがちだが、確実に仕事をこなしていくスキルが何より重要だ。 入社して1ヶ月、1年でどんな環境にいるかは今後の人生を左右する。 意識の高い人たちの間に身をおくのは大切だ。 ネットの世界でいうと、ベンチャー支援のネットエイジから支援を仰いだミクシィ創業者の笠原健治社長やグリーの田中良和社長らがいる。 彼らは株式上場だってできるんじゃないかと自然に思える環境にいたことが大きいのではないか」       「社会人なって学んだのは、不合理なことがあったら徹底的に考えることだ。 自分の考えが全く正しいと思っていると成長しにくいし、振り返って考えると間違っていることも多い。 それでも納得いかなければ意見をすればよい。 社会人は良いことも悪いことも記録が残り続ける」        --新社会人とは年齢も感覚も近いですが、今の若い世代が仕事で重視するのは何でしょうか。      「上の世代と比べると、がつがつ突破すると言う意欲は弱く、いわゆる草食系が多いような気がする。 大もうけして贅沢をするのも感心が薄い。 私自身も会社の近くの1LDKに住んでいる」      「競争より調和を重んじる世代でもある。 私は両方を持ち合わせるが、自分が社会にどんな影響を与えるかを重視している。 当社のビジョンは 『当たり前を発明しよう』 だ。 誰もが使い、なくなっては困るようなサービスを提供したい。 多くの人に喜んでもらい、その結果、我々も幸せになっていくと言うのが仕事のモチベーションだ。 仕事を通じて社名のリブセンス(生きる意味)を問い続けて生きたい」        リブセンス社長 村上太一氏のこだわり      『信頼を失う 同じてつは踏まない』     村上社長は 「信頼を失うと自分のやりたいこともできなくなる」 と説く。 きっかけは地震の失敗にある。 起業してまもなく、村上社長がアルバイトをしていた企業に求人情報の掲載を依頼した。 しかし、担当者との打ち合わせ当日に、村上社長は寝坊した。 その後は 「担当者とは連絡が取れなくなってしまった」。 この失敗を教訓に今では目覚まし時計を枕元に5つも置いている。                         ツイートこの記事をつぶやく
              孫氏        アメリカ携帯電話大手スプリントの買収など、世界規模で事業展開を推し進めるソフトバンクの孫正義社長。 「世界一の企業になる」 という目標を掲げ、創業30年余りでグループ企業は1300社を数え、更に成長し続けている。 飽くなき事業欲はどこから来るのか。 若い世代に何を望むか。        --ソフトバンクは猛スピードで事業を広げています。 そこで急ぐ理由がなんでしょう。      「企業の価値は挑戦と進化で決まる。 受け継いだものを守るだけでは会社は大きく強くなれない。 世の中の進化においていかれて地盤沈下していくだけだ」      「例えば、30年間生きる企業がどれだけあるだろうか。 ありとあらゆる会社の0.02%しかないといわれている。 今から30年後、新社会人の多くは今の僕よりちょっと若いくらいだが、家庭を持ち、大黒柱として支えていくだろう。 ただし、99%以上の会社はなくなっている。 アメリカ・アップルですら、倒産するのではないかと言われた時期もあった。 30年後どうするか、先を読む選球眼が大事だ」        --挑戦や進化を続けるには、どうすればよいのでしょうか。      「僕が考えた、働く上での極意が幾つかある。 1つは 『能がちぎれるほど考えよ』。 アメリカに留学した19歳の頃、1日5分で1つ発明するノルマを自ら課した。 1年間で250件ほど特許に出願できるようなアイデアを生み出した。 そのうちの1つが音声付多言語翻訳機で、試作機まで作り、1億7000万円を稼いだ」      「早速今晩にも、ストップウオッチできっちり5分間測って、世界初のモノを考えてみてほしい。 新しい水道の蛇口とか、今までにない自動車のワイパーとか何でもいい。 脳がちぎれるほど考えて、それがモノにならなかったとしても、そのアイデアは人生のどこかで役立つはずだ」      「ソフトバンクを創業する時も、どんな事業をすべきか40くらいアイデアを作った。 おそらくどれを選んでも、少なくとも日本一、更に世界一を狙えたと思う。 それくらい最初は考え抜いた」         --イギリス・ボーダフォン日本法人やアメリカスプリントなど、兆円単位の買収を仕掛けてきました。 どんな勝算があったのですか。      「 『資金があるから事業をやる』 ではなく、『何をしたいか』 で事業を決めることが大事。 ソフトバンクはモバイルインターネットの分野で成長を目指すと決め、情報革命で人々を幸せにするという理念を掲げた。 ボーダフォン日本法人の買収は2兆円近くを投じる大博打だったが、携帯電話事業への参入はソフトバンクにとって欠かせない選択だった」      「後押ししてくれたのが私の同士である、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さん。 『本気でモバイルネットに攻め込むなら、ボーダフォン日本法人を買うリスクより、買わないリスクが大きい』 という柳井さんの一言で決断した」      「やみくもに突き進むのではなく、戦う為に武器も必要だ。 ボーダフォン日本法人の買収は、多くに人に 『うまくいくはずがない』 と言われたが、私は 『日本で一番になる』 と言い続けてきた。 アップルのスマートフォン 『iphone』 が世に出る前から、創業者の故スティーブ・ジョブスと日本と日本での独占販売権について約束を交わし、収益源になると見通していたからだ」        --事業を手がける上で判断に迷うことは。      「義と利のどっちを選ぶか。 東日本大震災のときに考えさせられた。 我々の電波が後10メートル、20メートルでも届いていたら、1人でも多くの命を救えたかもしれない。 その反省から3兆円のお金をかけて一気に通信網を整備した。 お金が掛かるとかは問題ではなく、義を取る必要もある」       「志を共にするものを集めることも大事だ。 アイデアを考えるくらいなら1人でできるが、革命的なことをするには仲間を集めなければならない。 良いときも悪いときも、本当に志を共有で切る仲間こそ頼りになる」        ソフトバンク社長 孫正義氏のこだわり    『時代は追わず 仕掛けて待つ』    孫社長は常に心に念じているのが 「時代は追ってはならない。 読んで仕掛けて待たなければならない」 という言葉だという。 既にモノものをちょっと変えて売る、という程度のモノはどの道続けない。 「新しい時代を作るんだ、世界中の人に興味を与えるんだ」 というくらいの情熱が必要と説く。 先を読む冷静な目と暑い情熱が混在しているところが、孫流経営らしさかもしれない。 (日経流通新聞)                      ツイートこの記事をつぶやく
               奥本氏           日経流通新聞 「仕事って何」 のコーナーに WiL パートナー 奥本直子氏の記事が出ていましたからご紹介します。        4月から新年度。 多くの若者が新社会人として大一歩を踏み出す。 日本企業を取り巻く競争関係が厳しさを増す中、仕事とどう向き合うべきか、何のために働くのか。 壁を乗り越え、実績を積み重ねてきた経営者や識者に語ってもらう。 1回目はアメリカ・ヤフーで創業者ジェリー・ヤンチャー投資・育成会社のWiLでパートナーを務める奥本直子氏。        --ヤフーを退任する再には現地のメディアが報じたほど、シリコンバレーでは知る人ぞ知る存在でした。 渡米のきっかけは留学だったとか。      「小さい頃から世界で活躍する仕事にあこがれていたが、最初の職場は京都の高島屋。 輸入品の売り場尚担当だった。 マッキンゼーに転職して調査などを担当していたところ、知人が奨学金を得て海外に留学した。 それで、私もいけるかな、と」      「英文科卒で学生時代もホームステイに言ったりしたが、実際に留学してみると言葉の壁が予想以上に高かった。 講義が全く分からないし、ノートも取れない。 言葉はツール(道具)なんだと痛感した」      「日本人は見掛けを気にするが、途上国から来た留学生は気にせずに発言する。 国を背負ったエリートであることも多い彼らの発言には中身がある。 実は留学したかった理由の1つは、湾岸戦争のときに日本が多国籍軍に多額の財政的な支援をしながら、感謝されなかったことに疑問を持ったから。 発音が綺麗でなくても言い、自らの立場をはっきりと主張することの大切さを学んだ」        --アメリカ・ヤフーと日本のヤフーを橋渡しするようになったきっかけは。      「ボストン大学で修士号を取得し、日本と世界の橋渡し役になるという目標が定まった。 アメリカに残り、喫茶店チェーンや美術館などでマーケティング担当として働いた後、アメリカでネット企業に就職。 日本法人やパートナー企業との調整役を担った。 その後、ヤフーがアジア地域のマーケティング担当を募集していることを知り、応募した」       もともとヤフーのジェリー・ヤン夫人のアキコ氏と知り合いだった。 入社当時は5年ほど疎遠になっており、てっきり引退しているものだと思ってヤン氏にメールを送ったら、『お昼と食べよう』と。 その席で 『日本のヤフーとの関係が上手くいっていない。 ナオコ、日本語できるわよね。 2ヶ月で改善提案してくれないか』 と言われた」        --入社わずかな期間で任された難題にきっちり成果を出し、上部の評価を得て行きました。      「当時、日本側では100人くらい話を聞いただろうか。 『ライセンス料を払っているのに、アメリカ本社の技術サポートは不十分だ』 という不満はよく理解できた。 日米の折半負担で、お互い利益となる戦略を考えるチームを作りましょうと提案し、改善に取り組んだ」      「その後、日本のヤフーは大きく成長し、アメリカ・ヤフーのライセンス料収入も大きく増えた。 ヤフーでの直属の上司は国際マーケティング担当、国際担当役員と変わっていき、最後は国際プロダクト・ビジネス担当のバイスプレジデントとして、ヤン氏と直接やりとりしていた」         --3月にベンチャー投資・育成会社に移り、日米の大企業の橋渡し役となって、仕事の意義、目的はなんですか。      「問題を解決し、周りの人を幸せにすることだろうか。 ヤフーが買収したネット広告のオーバーチュアとの統合は本当に苦しい日々だった。 人材と製品をどうするか。 問題が山積みだったが、そういう時は関係する全ての人が幸せになる為に、問題を解決する為にどうしたらいいかと考える。 山を動かすのは厳しいが、わずかでもいい。 前に進むことだ」      「慣性の法則で動いていてはダメ。 自分で動かないと。 昔どこかの雑誌で読んだ言葉が印象的だった。 高みを目指して山を登ると息苦しい。 平らな道は苦しくない、と。 苦しいときは高みを目指しているんだ、と思うようにしている」          奥本直子氏のこだわりは、「共通のゴールを見つけること」 という言葉を強調する。 アメリカ・ボストン大学でコミュニケーションについて学び、その後もアメリカIT大手と日本やアジアの橋渡し役として活躍しただけに、「丁寧に相手の話を聞く」 にが持ち味だ。 「どんなに複雑な状況でも共通の目標を作り、自分が動けば、人も動く」。 文化の違いを越えた長年の実績に基づくこだわりだ。        ツイートこの記事をつぶやく
      竹田城        「天空の城」 として知られる国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)を2013年度に訪れた観光客が、過去最高の50万7589人に上ったと同市が明らかにしました。 前年度は23万7638人で、入場者数は2倍以上となりました。        市によると、竹田城跡の入場者は2005年度に1万2千人を記録して以来、ほぼ増加を続けている。 2006年には 「日本100名城」 に選ばれたことで注目され、近年はは映画のロケ地になったことや、雲海に包まれる姿がメディアで取り上げられ、爆発的な人気となっている。       googleの “さがそう。「冬のお出かけ」関西編”で 「日本のマチュピチュ」 って検索されて映像が流れるCMが最近ではお茶の間に流れていました。        ここ竹田城跡行ってみたい!!                                ツイートこの記事をつぶやく
              メール伝わる        毎日使うビジネスメール。 当たり前のように書いているが、要件が相手に伝わらず、ミスやトレブルに発展することがある。         ミスで時に多かったのがファイルの添付忘れ。 ビジネスメール教育を手がけるアイ・コミュニケーションの平野社長は 「添付忘れを完全に防ぐ方法は無い。添付したことを本文に書く癖をつけ、相手に気づいてもらう」 と。        用件が伝わりづらくなる長すぎる文章は避けたい。 最近はスマートフォンでメールを確認する人も多く、一読してすっと頭に入る簡潔さが求められる。 1つの文章を短くし、箇条書きや改行して行間を作りメリハリをつける。         そして 「メールを 『送った』 = 『伝わった』 ではないと肝に銘じる」 こと。 受信者側に立ち、理解できる内容かどうか、送信前にきちんと確認しよう。         メールが普及し、書き方は身についていると思い込んでいる人は多い。 だが、日本電信電話ユーザー協会の吉川さんは 「若い人ほどきちんとしたメールの書き方を知らない」 と指摘する。 携帯メールや 「LINE」 など短文のやり取りが多いためだ。         最近は返信が遅いことにいらだつ人も増え、アイ・コミュニケーションの調査では 「24時間以内の返信を希望する人が8割以上」 直ぐに詳細な返信ができない場合は 「後ほどお返事します」 などとひとまず返信する方が多い。 メールマナーも事はと同様、変わりつつある。        メールの注意点ランキングは、    第1位 「添付ファイルが大きい」    メールや写真や文章などを添付する場合、容量が大きすぎると相手にメール自体が届かないことがある。 スマートフォンで撮った写真なども容量が大きいので注意。        第2位 「テキスト形式で送信」    メールには大きく2つの送信方法がある。 1つがテキスト形式といって文字だけが送れる。 もう1つがHTML形式で画像を添付したり文字の大きさや色などを自由に変えたりできるがこの形式に対応しないソフトもある。 無意識にメールを送っている人が多いが、メール画面で確認し、初めて送信する相手にはテキスト形式を選ぶと良い。        第3位 「アドレスが違う」    当然だがメールアドレスを間違えると相手に届かない。 場合によっては、似たアドレスの人に届いてしまうこともあるので、取り扱いには注意が必要だ。 送る前に必ず確認する。        第4位 「添付ファイルを忘れる」    「メールの本文で画像を添付したことを書いたのに、実際につけるのを忘れてしまった」。 アイ・コミュニケーションの調査では、メールの失敗で1番の多かったのが添付ファイルの付け忘れで、調査対象の7割が過去1年間で経験した。        第5位 「『重要』を乱発」    多くのメールソフトには、「重要度」 を指定する機能がある。 重要度を 「高」 にすると、相手に届いたときに 「!」 マークなどがつく。        第6位 「先方に社名がない」    ビジネスメールでは、基本的に相手の社名をきちんと書く。 例えば日経コーポレーションの田中太郎社長に出す場合は、「日経コーポレーション社長」 と書き、改行して出だしをそろえて 「田中太郎様」 と書く。        第7位 「時候の挨拶が長い」    手紙の場合は時候の挨拶から始めるのが基本的なマナーと言われるが、ビジネスメールの場合は簡素に用件を伝えるのがベスト。        第8位 「CCで送った人の名前が文中にない」    「CC」 は参考までに送りたい相手がいる場合に使う。 メール本文には送信した相手の名前も書く。 「日経コーポレーション社長 田中太郎様 (CC 営業本部 佐藤次郎様)、「営業本部 佐藤次郎様にもCCで送りしています」 など。        第9位 「特殊記号を使っている」    パソコンの基本ソフトによっては、メールの文字が正しく表示されないことがある。         第10位 「改行が少ない」    大切なのは、用件を簡素に伝えること。 1行は長くても30文字程度で改行するとよい。 用件を箇条書きにしたほうが読んだときにポイントがつかみやすい為だ。         ビジネスメールの注意点でした。 (NIKKEIプラス1より)         ツイートこの記事をつぶやく
                ウイルスの脅威      情報処理推進機構(IPA)は、専門家117人の意見を集め、3013年の情報セキュリティー10大脅威をまとめました。         1位は企業や団体から機密情報を盗み出す 「標的形サイバー攻撃」 によるスパイ活動で、2~4位はパスワード漏洩などウェブサイトやウェブサービスに関する脅威が占めた。 IPAは 「10大脅威を自社や自身に当てはめて課題を認識して対応して欲しい」 とした。        1位の 「標的型メールを用いた組織へのスパイ・諜報活動」 は2011年が1位、2012年は2位だった。 特定の政府機関や研究機関だけではなく一般企業も狙われるようになったことから 「国益や企業経営を揺るがす懸念事項になっている」。        IPAは今年から脅威を測る基準を 「誰が何をどんな目的で攻撃するか」 に変更した。 この結果、2012年1位だった 「クライアントソフトの脆弱性をついた攻撃」 は2013年の1位に含まれた。        2位は 「不正ログイン・不正利用」。 複数サイトでのパスワードを使い回しが原因という。 3位は 「ウェブサイトの改ざん」。 訪問者にウイルスをばら撒く為の踏み台として改ざんされる。 IPAは運営側への対策を呼びかけている。        昨年3位だった 「悪意あるスマートフォンアプリ」 は6位に下がった。 不正アプリで盗まれた個人情報がネット上の詐欺行為に悪用される被害も出ている為、引き続き注意が必要だ。        新顔は7位を9位。 業務上知りえた情報を交流サイト(SNS)に不用意に発信してトラブルになるケースが相次いだ。 パソコンをロックして身代金を要求するウイルス 「ランサムウエア」 の脅威も増しているという。(日経流通新聞)                           ツイートこの記事をつぶやく
       投稿している時間が無い!?        ツイートこの記事をつぶやく
       今日で日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに掲載されていたシンガー・ソングライター 杉田二郎氏の紹介は最終回です。        音楽を取り巻く環境が変わり、「本当にやりたいこと」 とビジネスがせめぎ会うこともある。      世のなかがフォーク、ロックからニューミュージックと言う新たな時代を迎え、ダンス曲も歌謡曲もオリジナルも何でも歌っていい状況が生まれると、音楽活動そのものがドンドン楽しくなってきた。 いろいろな人たちとジョイントコンサートを重ね、全国各地を7ヵ月半かけて回った 「ここが地球のどまんなか」 ツアーもなな中での挑戦でした。 テレビカメラに向かって歌うのと別に、できるだけ目の前にいる人たち直接、好きな歌をライブで伝えると言う気持ちがずっと続いたいます。      経済関係も関係あります。 昔、何十社もあったレコード会社もだいぶ淘汰されましたが、レコード会社はビジネスして絶えずレコードの売上げを上げなければならない。 でもレコード会社のスタッフがやらせたいことと、僕のやりたいことが必ずしも一致しません。      金融機関などの破綻が相次いだ1998年、「杉田二郎30周年記念コンサート 『絆』 ~きたやまおさむ作品を唄う」 のライブアルバムは、初めて北山氏、大阪万博のアマチュアコンサートの企画者だった中井高之氏と3人で自主制作しました。 ライブ会場での手作りです。 2000年1月に出した 「祈り」 というライブアルバムも3人で作りました。 大手レコード会社の流通経路がなく、精神的支援だけでしんどかったけど、やってよかったと思います。         「戦争を知らない・・・・」 、も 「男どうし」 「ANAK」 も、杉田さんの唄い方が変わったと言われる。      加藤和彦さんはじめ、親友の何人かが既に天国に逝ってしまっている。 例えば 「男どうし」 も、最初は北山氏とぼくとのパーソナルな関係の唄でしたが、最近は一緒に仕事をし、食事をしたこの世にいない仲間の顔を思い浮かべながら、「貴重な時間を、ありがとな」 という気持ちで歌っていることも事実です。 「ANAK」 だって、始めは子供を持つ親の気持ちをこめて歌っていましたが、僕自身が小学生と双子の幼児を孫に持つと、じいちゃんが孫に唄って聞かせいるようなところがある。 「戦争を知らない・・・・」 もそんな感じなっていると思いますよ。      驚いたのは 「男どうし」 なんかが結構、カラオケで歌われていることです。 僕の友人は始めてあった人たちと 「ANAK」 や 「戦争を知らない・・・・」 も一緒に歌ったそうです。 また 「八ヶ岳」 が香港などでも歌われている。 オリンピックのように国境や世代を超えて歌い継がれる音楽の力は凄いと思いますね。        子供たちと 「戦争を知らない・・・・」 を歌い始めた。      いまだに戦争の絶えない世の中で、自国を守るために改憲の議論も出てきた。 僕らが孫を持つ年になると、罪の無い子供たちがずっと 「戦争を知らない子供たち」 出合って欲しい気持ちが強まります。 そこで2年前、デビュー45周年記念アルバムを作る際に、この曲を一緒に歌おうと、神奈川県三浦市三崎の 「かもめ児童合唱団」 を紹介してもらいました。 僕が都内でレコーディングし、三崎で歌った合唱団のコーラスを重ねて出来上がった歌を、城ヶ島の小学校の横にある集会所でみんなで聞き、一緒に何曲か歌うすばらしい時間をすごしました。 これをぜひ大人にも聞かせたいと、と名でライブも実現しました。      今もギターを握ると、いつも自然に口をついて出てくるのはボブ・ディランの 「風に吹かれて」。 戦争をやっている当事国の彼が作り、それを世界中の若者が歌ったというのはすごいことです。 僕の原点でしょうね。 病気も経験して67歳になりましたが、これからも自分が大好きだと思った曲を沢山唄いたい。 できるだけ好きなことを余計にやりたいと思っています。 元気になればウオーキングくらいは再会したい。      最近、稲葉晃さん、ばんばひろふみさん、堀内孝雄さん、高山巌さんそして僕の5人で 「ブラザーズ5」 というユニットを結成しました。 60年代後半から40年以上、音楽の道を歩んできた5人組で、5月からコンサートをやります。 みんな 「新聞読めば何もかもが かすんでよく見えないね」 という年齢に達しましたが、前のめりに生きたいと願う熱いオヤジたちです。                          ツイートこの記事をつぶやく
       今日でシンガー・ソングッライター 杉田二郎氏をご紹介するのは4回目になります。        「戦争を知らない子供たち」 の大ヒットの後、北山修さんはロンドンに留学。 杉田さんが父を理解しようと1年間の宗教修行に励む。      2代目ジローズはテレビもラジオもでまくりで、家にも帰れない忙しさです。 ただ1年間限定のデュオなので1972年に解散。 森下次郎氏は大学に戻り、僕は事務所を設立してソロで 「人力ヒコーキのバラード」 などを作ります。 事務所にはオフコースもいて一緒に 「愛の子守唄」 も歌いました。       しかし、新譜を出しても売れない時期が来ます。 レコードビジネスの圧力を感じて音楽を楽しめないし、「戦争を知らない・・・・」 の決着もつかない。 悩んだ末、休もうと決断します。 宗教家の父の道と本気で向き合わなければならない、と。 74年春から岡山で修行生活に入りました。      修行中も 「事務所が大変です」 とスタッフやオフコースから手紙が来ます。 オフコースは実力もあるのにレコードが売れない。 僕は心が自然体に入って安らかな気持ちになっているから 「自分でやるしかないんだ、頑張れ」 とか 「早く一本立ちしろ」 とか、思えば突き放すような返事を書きました。 数ヵ月後、「やっと中野サンプラザが満員になりました」 と手紙を貰ったときは泣きましたね。      1年間の修行経て、親父は人生をかけて人々の悩みと接してきたんだと改めて尊敬の念を強く抱きました。 修行から戻ってくると事務所のみんなが立派になっている。 うれしかった。 さあ、ぼちぼち行動を起こすかと北山氏に手紙で 「何か始めたい」 と打診すると、「会えるチャンスがあれば作品を作ろう」 と返事が来す。        75年夏、ロンドンの北山氏を訪れ 「男どうし」 など多くの歌を共作。 秋の沖縄コンサートで呪縛から解放された。      「男どうし」 は北山氏と僕のことをそのまま歌った曲です。 シングルカットする一方、一緒に作った全曲を収録したアルバムが 「題名のない愛の唄」。 新たな第一歩で、自信にもつながりました。      その秋、沖縄のコザ(現沖縄市)でコンサートを開く機会があり 「新しい杉田を見てくれ」 という気持ちで舞台に向かいます。 沖縄の本土復帰3年。 フェンスの向こうに米軍がいて、ベトナム戦争の残り香も残っている。 逃げる気持ちがあったんでしょう。 「男どうし」 や 「風」 などを歌って喝采を浴びたけれど、本編には 「戦争を知らない・・・・」 入れませんでした。 しかし、アンコールの拍手を貰い、何も考えずに出て行ったら、自然とこの歌を歌っていた。       すると会場は大合唱です。 涙が止まりませんでした。 ようやく決着がついたと思いました。 北山氏には手紙で 「我々のメッセージが届いた」 と報告しました。        新境地を開いたのが 「ボーカリスト」 の道だ。      沖縄のコンサートを機に歌うことが本当に楽しくなりました。 「積木」 「八ヶ岳」 などがヒットする一方、ある日プロデューサーがフィリピンのフレディー・アギラという歌手の 「ANAK(息子)」 という曲が現地で一日に何度も流れていると言うニュースを持ってきます。 タガログ語で 「子供」 という意味で、親が子供を得た喜びや悪の道を進む息子を嘆く唄です。 心に響きました。 加藤登紀子さんも母親の立場から歌いましたが、僕もなかにし礼さんの日本歌詞で78年に歌い始めました。      カントリー&ウエスタンの大御所、ウィリー・ネルソンが80年頃、アメリカのスタンダード曲を集めた 「スター・ダスト」 を出したときも感動しました。 「杉田も自分の歌心で何でも歌ったら」 と言われていましたが、昔はオリジナルを作りたい気持ちが勝っていました。 でも、なにし礼作詞・宇崎竜童作曲の 「再会」(86年)でもボーカリストという新境地に立ちました。      僕も国を代表するような名曲を歌えたならと思っていた頃、歌謡界の巨匠、吉田正さんの作品を歌う企画が生まれたのです。 2千曲もある吉田作品のなかから、子供の頃から聞き覚えのある 「公園の手品師」 など10曲を選んだ 「ラブ・レター」(91年)です。 先生が 「君の表現で思うように歌うことが一番だよ」 と言ってくださったことがすごくうれしかった。      好きな歌を目の前にいる人に伝えたい。 そんな思いから80年9月から81年4月まで、全国138ヶ所のライブ 「全国138景歌祭り」 をやりました。 「ここが地球どまんなか」 ツアーです。(日経夕刊)                         ツイートこの記事をつぶやく
       今日で3回目になります日経夕刊 「人間発見」 のコーナーにシンガー・ソングライター 杉田二郎氏のインタビュー記事をご紹介します。        高校時代、友人を通じてフォークソングに目覚めた。      立命館高校に入学して驚いたことは、色々な生徒がいること。 親の職業も多岐に及び、サラリーマンの子供が意外と少なく、教員や裁判官、タクシー会社の社長の子供もいれば老舗料亭、センス・うちわ職人の子もいます。 また大阪、志賀はもちろん、奈良県大和郡山市などから通う子や金沢から下宿している子もいる。 自分の行動エリアもドーンと広がった気がしました。      高校2年のある日、山本逸士君、佐竹俊郎君という友達が放課後の教室でギターを弾き始めると、引き込まれました。 「何だ、それ」 と聞くと、アメリカンフォークソングだと言います。 佐竹君はフィギアスケートの選手として大きな大会に出る一方、文化祭でカントリー&ウエスタンやフォークソングを歌う。 音楽好きが彼らのところへ集まりました。 後にアリスが歌ってヒットした 「今はもうだれも」 を作ったのが佐竹君です。      ビートルズは既に存在し、僕もベンチャーズなんかも聴いていました。 佐竹君、山本君から 「二郎も一緒にやらないか」 と誘われ、彼らの家に遊びに行きました。 レコードがいっぱいあるし、ギターも歌も凄く上手い。 面白そうだなと云う気持ちが膨らんでいきました。 将来は教師か新聞記者になろうと思っていましたが、フォークソングが大きなウエートを占めるようになります。 「大学に入ってから考えよう」 と立命館大の法学部と文学部に合格し、日本文学科に進みました。 たぶん、その時点で音楽を取っていたんですね。        大学紛争の嵐の中。 京都はアマチュアフォークの熱気で溢れ、杉田さんも 「自分たちの音楽」 を求めて模索する。      大学ではギターを持った若者が大勢います。 京都御所辺りでは数メートルおきにアマチュアグループが演奏し、人が集まっている。 東京では森山良子さん、マイク真木さんらが学生ながらレコードを出し、大々的にコンサートをやっているとの話も入ってきました。       京都でも学生がグループを束ねてライブを運営する団体がいくつか生まれ、リーダーがはしだのりひこさんでした。 加藤和彦さんや平沼義男さん、北山修さんらがアマチュアのザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)として活動し、解散記念に67年に自主制作したアルバム中の 「帰って来たヨッパライ」 が爆発的にヒットします。      僕も男2人、女性1人のピーター・ポール&マリー(PPM)スタイルのグループ、次に男3人の初代ジローズを結成しました。 いつまでも英語のフォークのコピーでなく、自分たちのオリジナルを歌うと68年 「あなただけに」 「マイ・ハート」 の2曲を作ります。 時代のキーワードは 「ラブ&ピース」 で加速されたいました。 毎日放送の深夜ラジオ番組 「ヤングタウン」 の 「今月の歌」 に 「あなただけ」 を応募すると採用され、東芝からレコードデビューしました。 フォークル解散後、結成された 「はしだのろりひことシューベルツ」 に僕も合流し、「風」 「さすらい人の子守唄」(69年)などのヒットが生まれます。        70年大阪万博のアマチュアフォークの祭典でテーマソングとして作った 「戦争を知らない子供たち」 が反響を呼び、2代目ジローズが歌って大ヒットすると社会現象に。      大阪万博では仲間の一人が事務局にかけ合って、8月23日に 「日本アマチュアフォークソングフェスティバル」 を開催します。 16組の出演者もスタッフも全部アマチュアで、戦後生まれ。 僕はプロなので出演できませんが、テーマソングが必要という事で、北山氏が 「戦争を知らない・・・・」 の歌詞をたたき出してきます。 戦争という言葉を使うことには抵抗があった。 北山氏とは相当議論しました。      万博会場では出演者全員でこの歌を合唱し、ラジオの深夜放送でも流れた。 この年に森下次郎(悦伸)氏と2代目ジローズを結成し、71年2月にリリースすると大ヒットします。 ただあまりにも反響が大きすぎた。 学園祭などで歌うと非難の声が上がる一方、会場でけんかも起きている。 僕も北山氏も傷つきました。 この年、日本レコード大賞作詞賞を受賞しますが、式典に北山氏の姿はなく、ジローズが代わりに出席しました。                       ツイートこの記事をつぶやく
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