「味の時計台」 神田駅北口店 6月23日オープン
歯医者の帰り神田多町からブラブラ散歩していると、工事中のお店近寄ってみるとサッポロこだわりラーメンの「味の時計台」でした。
6月23日 11:00オープンでオープンセールとして味噌、塩、醤油ラーメン750円のところ390円。
さらに、6月24日・25日の2日間限定で合計500名にお土産ラーメンをプレゼントしてくれる。
これは、食べてみないといけないな~~
ここのお店、前は立ち食いの蕎麦屋で醤油ラーメン置いていた事を思う出します。
名前は、なんだった(´・_・`。)ヵナァ・・
記憶が曖昧だ!!!!
この記事をつぶやく 「築地本願寺」
築地といったら『築地本願寺』
なんかインドっぽいな。
で、調べるてみると、このお寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言って、その発祥は、元和三(1617)年、西本願寺の別院として、第十二代宗主(ご門主)准如上人によって建立されたそうです。
当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦三(1657)年、歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまいました。 しかし大火後の幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。
“当時の幕府もひっでぇことしやがるよ。 海の上だったら再建OKだなんて。”
そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七(一1679)年に再建。 「築地御坊」と呼ばれるようになりました。 尚、このときの本堂は、正面 が西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、市場のあたりが門前町となっていたそうです。
その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(1931)年に起工、3年後の昭和九(1934)年に落成され現在に至っているそうです。
だから、インドっぽいんだ。
この記事をつぶやく 築地の裏通り
中央保健所の用件が済んでここまで来たら久しぶりに築地まで行ってご飯食べようかと、日陰を探して裏通りを歩くと、
ちょっと昭和40年代にタイムスリップしたようね雰囲気のある路地がありました^^
゚+。゚(・∀・)゚。+゚イイ!!
この記事をつぶやく 京橋 「雲楼」
昨日、築地の聖路加タワーの隅田川のほとりを散歩したと、お腹も空いたし久しぶりに京橋まで出て『雲楼』の 『もつ入り五目焼そば』 を食べようと京橋2丁目まで行って確かこの辺りにあったはずと探したが 『雲楼』」が無い・無いんダ━━ヽ(`・д・´)ノ━━!!
お店が有った辺りが駐車場になっている (><)
周りが、歯が欠けたように駐車場になっていてどうしたんだろう??? と、調べるとこの辺り再開発で立ち退きになったらしい。
あぁぁ・・・ とても残念デス!
『もつ入り五目焼そば』 美味しかったんだよ!!! もつ入りというのが珍しくてしかもボリューム満点だったんだ。 それと、セロリ炒飯がまた絶品だったんだ。
いや、ホントに残念デス!
で、この辺りをキョロ( 「・ω・ )キョロしていると、土佐人には絶対に外せないお店発見!([+]Д・)
そのお店の名前は、
『龍馬』
土佐人にはたまらないお店に違いない。
多分!?
まだ、昼の時間だからお店のシャッターは閉まっていたから雰囲気は分からないけど日本酒を飲ませるお店のようです。
この記事をつぶやく 迎賓館
四ツ谷駅へ打ち合わせに行ったついでに 「迎賓館」 にちょっと寄ってみました。
四ッ谷駅から直ぐの所に有ります。
これじゃ遠いから近寄ると、
なんだか日本じゃない雰囲気漂わせています。
更に、近寄ると
雰囲気のある建物ですね!!!
この記事をつぶやく 九段下 「蕃書調所跡」
九段下の交差点の交番横に 『蕃書調所跡』という碑が立っています。
『安政3年 幕府はここ(九段下)の蕃書調所を設け、専ら海外の事情を調査するとともにその教育にあたらせた。 この調書はのちに神田一ツ橋通りに移って洋書調書に、更に開成所と改め、明治2年大学南校と改称して東京大学の前身となった。』
書かれています。
この記事をつぶやく 日本橋の桜
日本橋の近くにある銀行に出かけ、橋の袂 にソメイヨシノが1本植えられています。
この倍くらいになると開花でしょうか?????
確か、開花予想だと3月22~23日じゃなかった(´・_・`)カナー
後、1週間で桜が咲くということことです(人’д’o)ネッ
この記事をつぶやく 三菱1号館美術館
久しぶりに丸の内に来たからちょっと散歩すると新しいんだけど古い趣きのある建物
三菱一号館はイギリス・クイーンアン様式の外観を持つレンガ造の復元建築物である。かつて同地に存在した(旧)三菱一号館は、ジョサイア・コンドルの設計により1894年に竣工した丸の内最初のオフィスビルであった。 同館の竣工以降、丸の内には煉瓦造の建物が続々と立ち並び、1900年代末期には一丁倫敦と称される街並みを形成するに至った。 高度経済成長期の1968年、丸の内の高層化再開発が進む中で解体された。
現在の三菱一号館は、三菱地所が進める「丸の内再構築」第2ステージの第1弾として、隣接する丸の内パークビルディングと同時に建設された。 復元に当たっては外観デザインだけではなく、当初設計図・解体時実測図・内外装写真・保存部材などの資料を基に、現在の建築基準に適合させながらも構造・材質まで可能な限り忠実に再現。使用した赤レンガ230万個は当時に近い製法で生産された。 旧三菱一号館の保存部材についても一部を修復・再利用しているそうです。
2010年4月6日(火曜日)に開館予定で開館記念として『マネとモダン・パリ展』が開催される予定だそうです。
この記事をつぶやく 「神田鍛冶町」
神田鍛冶町にある銀行へ。
何時も、この辺には鍛冶屋が多かったんだろうな?だから、「鍛冶町」というんだろうと思っていて改めて調べてみようとも思っていなかったのですが、ちょっと調べてみると。
江戸時代の名残が残った町名だそうです。
鍛冶町
を調べてみると、 江戸時代の初期に町割りで生まれた町だそうです。
江戸時代のお抱えの鍛冶方棟梁高井伊織がここに屋敷を構えた事に由来するといわれているそうです。 で、その配下の鍛冶職人が住むようになり、他にも金物に関連する職人が多く、刃物・工具・釘などを扱う卸売り業者もいたそうです。
ちなみの、「町」は、「ちょう」と読むのと「まち」と読む2種類が合って「ちょう」は、町人地を意味していて「まち」は「御」が付く幕臣の屋敷があったことに由来しています。
この辺だと、「ちょう」は、
「神田淡路町 かんだあわじちょう」
「神田岩本町 かんだいわもとちょう」
「神田須田町 かんだすだちょう」
「神田神保町 かんだじんぼうちょう」
「神田多町 かんだたちょう」
「神田富山町 かんだとみやまちょう」
「神田錦町 かんだにしきちょう」
「神田美倉町 かんだみくらちょう」
等々、神田は町人地の町ということになります。
江戸っ子も町ということです。
で、この近くでは、「神田小川町 かんだおがわまち」 「神田司町 かんだつかさまち」は、「まち」と発音して幕臣が住んでいたことになりますね。
会社の住所の日本橋は、町人地ということになります。
神田祭では、108町に数えられていますね。
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