昨日に続き、日経新聞夕刊の人間発見のコーナーにアンチエイジングの処方箋 順天堂大学大学院教授 白澤卓二氏のインタビュー記事を紹介します。          2004年にNHKの「老化に挑む」という番組でスキーヤーの三浦敬三さん(当時100歳)や聖路加病院の日野原重明先生(当時92歳)に出会った。          冒険家でスキーヤーの三浦雄一郎さん(78歳)の父・敬三さんは、99歳でモンブランの氷河を滑り、年間120日も滑った。 この敬三さんが100歳になった時 「1日として同じ雪を滑ったことがない」 と言ったんです。 場所や滑りかた、時間によっても雪質は違うわけで、その雪にいかにうまく滑るかが、敬三さんのテーマでした。 自然は取ってとてつもない深い存在で、一生チャレンジする生きがいでした。 このことがアンチエイジング(抗加齢)となるのだということを実証しようと思い立ったのが、研究を始める一つのきっかけとなったのです。        現場のお医者さんは治療医学のプロトコル(治療計画)しかやらないものだから、予防医学で何を実践したらいいか、なかなかわからない状況でした。 ところが雄一郎さん(歳、75歳で登頂し、さらに80歳でもチョモランマ(エベレスト)に登ろうと目覚ましい活躍をされています。 予防医学的な実践によってここまで達成できると報道されるなど、予防医学を広めていくにはすごくいい象徴となるので、お手伝いをしてもらっているわけです。        敬三さんにしても日野原先生にしても、こうしたお手本があると分かりやすいんです。 理論だけではない、このおふたりがやってきた生活スタイルが基本型になっている。 一人はスキーヤー、1人はお医者さん。 この二人を融合したような方法論、生活術というのを居つくかの本にまとめています。 あとはサーチュイン(長寿遺伝子)のような分子生物学的な動きもあって、そういうエビデンス(証拠)と、おふたりの生活術の中にあるものを新しい学問領域にドッキングさせるのが私の課題だと思っています。        アカデミズムだけを追う研究者は国民への説明能力が無かった。 専門家が勝手に税金を使って実験をやっているのじゃないかとか、経済が悪くなると研究者に揺さぶりがかかってくる。 敬三さんが、こういうことをやっていて、それはこの遺伝子をスイッチオンにしていということになれば納得するのではないでしょうか。 国民にわかるような形でテーマを還元する必要があり、そういうことをやっている人はほとんどいない。 僕はその仕事を買って出ていると思っています。          順天堂大学の大学院教授でると同時に、株式会社アンチエイジングサイエンスの取締役でもある。 企業などからの資金援助を受け、寄付講座の加齢制御医学講座を主宰する。          アメリカの教授はもっとエネルギッシュです。 日本には僕のようなスタイルは少ないが、アメリカでは企業を持っていたり、特許を取って起業するのは珍しくありません。 アカデミックな基盤をつくるとともにビジネスの基盤もオーバーラップしている。 そういう手法です。 具体的には企業の顧問などをやることによってどういうメーケティングをしたらいいのか、新しい商品の開発のお手伝いやアドバイスもしている。 食品産業がメーンで、後はサプリメント会社、漢方など予防医学につながる製薬会社などです。        東京都老人総合研究所にいた時に 『バカの壁』 を書かれた養老孟司先生は脳の解剖が専門だが、昆虫が大好きで、東大では学生の相手なんかしないで、自分の世界に没頭していた人なんです。 世間では東大医学部というものは誰も知らないと思う。 でも養老先生は一般の人にメッセージを出せる変わった教授だったんです。        僕が2007年に順天堂大学に寄付講座を開設する時、“養老スタイル化” を目指したんです。 メディアを利用して医学の内容を国民に分かりやすく解説する人が医学部に必要と思ったのです。 このオフィスを運営するスタイルは養老先生に近い。 集めた資金を持って来ているので、大学には逆にお金を入れる形になっています。 大学のブランドを汚さないようにスマートな内容を出すように心がけている。 懐の広い大学でありがたいです。            世界のアンチエイジング(抗加齢)医学の動向はどうなっているのだろうか。          世界に目を向けるといろんな考え方がある。 アメリカでは、もっぱらホルモン補充治療あたりから入ってきたので、女性ホルモンを投与する。 日本でもいますがアメリカと比べると50対1です。        日本ではホルモン剤まで使って若々しく自分を保とうと考えない。 サーチュイン(長寿遺伝子)をオンにするサプリメントが出るとアメリカ人は殺到して激しく飲んでいる。 長寿は誰でも望むところだが、日本人はそこまでどぎつい考えはないようです。         ヨーロッパはアロマテラピーとか美容、お肌の手入れ、コスメ(化粧)などという所に凄く力入る。 見た目が大事。 若々しいことには非常に興味がある。        では日本の興味は何処に。 それは 『内側の活力』 (内側のアンチエイジング) に行く。 ヨーロッパは外側の見た目に。 アメリカは無理やりの若返り術に力は入る。 温度差がある。         日本のドクターは、内側から若返ることに興味を持っている。 2003年、まだ数百人の頃からお世話しているが、いまや日本抗加齢医学会会員は7000人となりました。 その70%がお医者さん。 内科だけでなく、眼科、歯科、外科と横断的に全科に及んで、糖尿、循環器、消化器の学会と肩を並べるほどです。          6月の京都の学会で白澤卓二教授が発表し、反響を呼んだのが「テロメア」の調査結果だった。          平たく言うと、テロメアというのは意味が 『端』 という通り、細胞の中にある染色体の末端にあります。 年を取るとそのテロメアが短くなる。 だから 『寿命のバイオマーカー』 と呼ばれている採血してテロメアが短かったら長生きできないね、という話になる。 若い人の血を取るとテロメアは長い。 『寿命の回数券』 ともいわれる。 寿命が長いということは回数券が沢山残っているということ。 回数券が無くなると細胞は分裂出来なくなって老化するということは分かっている。        長野県上高井郡の高山村でテロメアの調査をしました。 この村はワイン用のブドウやリンゴと温泉が主要な産業。 観光と農業で60%の人が暮らしている。 高山村から10人、同じ年齢、性別の東京の人と比べたらどうなったか。 採血して調べたら高山村の人がかなり長いことが分かった。 考えられることは高山村の人がポリフェノールが豊富な果物や温泉など、生活スタイルがアンチエイジングなどに囲まれている。 それに対して、東京は大気汚染、朝晩の通勤ラッシュ、 オフィスのストレス、昼は添加物入りの弁当、夜はお酒でテロメアを短くする生活と想像できる。        研究途上のこのテロメアを早く一般の人にも検査できるようにしたいと思っています。 しかし、どこまで正確に 「あなたの寿命は」 と言っていいのか、まだ研究で固めなければいけないことがたくさん残っている。 高山村の人がもケースから見ていると食事や生活習慣、睡眠、海抜500~1500メートルという高地でることも関係しているのか。 社会的な影響が大きいので、データをさらに蓄積する必要がある。        これが使えるなれば非常に有用な予防医学の新しい道具になる。 インパクトがあるだけに、食事や運動の改善の動機ずけになる。 テロメアが短いといけないんだといえる。 この検査を国民レベルでできるようなものにして、予防医学を浸透させいきたい。        もう一つ目指したいのは日本文化の国際化で、特に日本の食文化を海外に輸出しようとするこころみです。 その時は 「長寿食」 というタグ付きで輸出する。 コンセプトは健康で長生きするために食べようと、世界一の長寿国日本から発信することです。 「この村はテロメアが長い」。 こういう証明付きで、村の人はこういうものを食べていると、村単位の国際ブランドをつくるのです。          ぼく自身、ある意味、実験オタクでスキーも何も知らなかったが、三浦雄一郎さんに 「ワイルドの中に出ていけ」 と言われ、雪山に行ったり沢登りをしたり50歳になって自然との融合を図れました。 実験室の中だけでは出てこない発想がある。 そうでなければここまで発展してこなかったと思う。        と記事がまとめられていました。               ツイートこの記事をつぶやく
       ジョエル・ロブションの日経夕刊に掲載された記事の紹介も最後になります。        「世紀の料理人」 と称されるシェフにまつわる挿話。 食材の仕入れは一切値切らない、というのもその一つだ。        鍋や洗剤の価格を交渉することはあります。 でも店で使う生鮮素材は絶対に値切りません。 世界一の食材を使わなければ世界一のレストランにはなれない。 わずかでも値切れば、流通業者や生産者は特別においしい食材をよそに回してしまうでしょう。 だから支払いも迅速です。 待たせたり遅れたりはしない。  そうしていると、鮮魚商はその日入荷した素晴らしい鯛を必ず一番に融通してくれます。        ニンジンで例えましょうか。 大きなホテルなら集中仕入れをするので安く手に入りますが、大きくて味気ないニンジンです。 それに比べて私が店で使っているニンジンはサイズが不ぞろい。 小さく、葉付きで、新鮮でみずみずしい。 目の前で比べてもらえば、私がどれほど食材を大事にしているか分かっていただけるはずです。         まず最高の食材ありき。 だから三ツ星レストランは高いのです。 経験ある料理人はそれを知っているはずです。 利益を追いかけ、食材にそれほどお金をかけない人もいますが、そこに未来はありません。        「良い食材を得る」  「技術を体得し仕事への情熱を持つ」  「人を愛する」。 良いレストランの3条件です。 それさえ守れば、高い値段をつけてもお客さんは来てくれます。        自動車で言えば高級レストランはF1です。 最高のマシンを最高のエンジニアが整備する。 他の店は町を走る車です。 町工場の整備士がみなF1マシンを整備できるわけではないでしょう。 だから2つ目の条件も欠かせません。 経営者がこの3つの条件を熟知していても、プロフェッショナルな人材なしに実現するのは難しい。 第一の条件の食材にしても、その食材の必要性がわかるスタッフでなければなりません。          最高の舞台で輝く一流の仕事にこだわる一方、対極にあるように加工食品メーカーとの協業、テレビ出演も辞さない。 三ツ星イメージとは裏腹の柔軟さが同居する。        テレビの料理番組は知人に 「半年ぐらいでないか」 と誘われ、結局12年の長寿番組になりました。 フランスのある総菜会社とは、もう20年、商品開発を一緒にやっています。 頼まれると 「ノン」 と言えないたちですが、この連携にはきっかけがあります。 工場でつくる食品にはもともと興味がなかったのですが、その工場は実は、かつて通った中等神学校のすぐ近くだったのです。 ノスタルジーをかき立てられました。        厳格な生活でしたが、人生の大切なことを教えてくれた場でし、それならいいかと感じました。 もちろんそれだけで決めたわけではなく、彼らは品質向上に真摯に取り組み、正直でした。 添加物を使わない約束も守られています。       はた目には 「三ツ星シェフがなぜ加工食品の監修を」 などと思われたかもしれません。 しかし彼らは私のようなプロフェッショナルの智恵を必要としていたし、なにより、品質を高めたいという強い思いがありました。 それは、ひいては食べる人、つまりお客さんの役に立つわけです。 だから私は、彼らの依頼を引き受けたことを誇りに思っています。        好き嫌いの多い少年が料理人を志し、フランス料理を変える世界的シェフとなった。 食にささげた人生、最後の晩餐も食材によりけりだとう。        季節はいつか、誰と一緒なのかにもよるかと思います。 友人たちと一緒の朝やランチなら、カマンベールチーズやソーセージを切りながら白ワインを1杯、かもしれません。 目の前に良い肉があればステーキもいい。 もし上質な鶏が手に入ったならローストして、皮はパリパリ、中はうま味たっぷりの肉を楽しんでいるかもしれません。 やはり食材ありきです。         天国での話をしますと、神様が 「今日は何を食べる?」 といったその時に、その日のメニューを決めたいと思います。                      ツイートこの記事をつぶやく
       昨日の日経新聞 夕刊にミシュラン・ガイド三ツ星シェフのジョエル・ロブションの手記が掲載されていましたからまた紹介します。          日本への思いは深い。 自身のキャリアに格別の影響を与えた国だと考えている。        初めて日本に行ったのは1976年、31歳の時です。 フランス料理の著名シェフ、ポールボキューズ氏と懇意だった大阪の辻調理師学校 (当時) に招かれました。 その時驚いたのは日本の都市のきれいさです。 美しい、というよりとても清潔でした。 エスカレーターのベルトもずっと拭いている人がいましたし、道路を行き交うトラックもピカピカでした。        もうひとつの驚きは、日本人のまじめさと礼儀正しさです。 東京ではホテルオークラに泊まりまりました。 小野正吉総料理長に厨房を案内していただいたのですが、スタッフが目上の人に示す尊敬、礼儀正しさに打たれました。 会社への忠誠心もそう。 自然に対する敬意も含め、日本人の資質=エスプリ・ジャポネなのだと感心したのを覚えています。        人に連れて行った 『吉兆』 で会席料理に出合いました。 研ぎ澄まされたように美しく、潔い。 食材も器も、季節感を尊重して細かく変える。 料理人としての人生で決定的な影響を受けました。 当時はコンコルド=ラファイエット・ホテルの総料理長でしたが、帰国後すぐ盛り付けを変えました。 フランス料理の華美な盛り付けをやめて、日本人がやるように美しく、と心がけました。 和食の簡潔さをフレンチにいち早く取り入れたのです。 パリのお客さんはすぐに 『これはフランコ・ジャポネだ』 と反応してくれました。          94年秋には東京・恵比寿にシャトーレストラン 「タイユバン・ロブション」 (現シャトーレストラン ジョエル・ロブション) を開いた。          再開発施設の目玉としてフランス的な館がほしい、と考えた事業主のサッポロビールから、私と、パリ 「タイユバン」 のオーナーだったジャン・クロード・ヴリナ氏に話が持ち込まれました。        もっとも、サッポロ側にはレストランと宴会場、という程度の漠然としたイメージしかありませんでした。 そこで、私とヴリナさんで館全体のコンセプトを具体化していました。 地下に菓子やケーキを売るブティックを作ろう、そこでパンを焼いて、と。 図面もすべて自分たちが引きました。 奥には厨房、階段はこっちだ、こういう具合です。 幼いころ建築家になりたかったので、これはとても楽しい作業でした。        ヴナリさんはテラスを作りたがっていました。 ご存じのとおり、テラスで食事をするのはフランスではごく普通のことですから。 ところが、これはなかなかサッポロの理解が得られない。 できたのは何と15年後です。 亡くなったヴナリさんも天国で 『やっと!』 と言っているはずです。          その後も乳業や製陶会社など、日本企業との協業が途切れず現在まで続く。 多くの日本人との出会いがあった。          大きかったのはやはり小野総料理長の存在です。 恵比寿に店を持つ前、オークラのレストランで料理を作る催しが時々あり、そこでも交流を深めました。 カリスマ性があって仕事にきわめて厳格。 でも気持ちの大きい人でした。 私を市場に連れて行き、日本の素材、日本人の味覚を教えてくれました。 日本とはどんな国なのか、日本人とはどう付き合えばいいのかまでを授けてくれました。        もう一人挙げるなら、パリ在住の料理評論家、富井軌一さんです。 富士山や鎌倉、京都に連れて行ってくれ、歌舞伎も見せてくれました。 私のことを 『兄弟』 と呼び、家族ぐるみで日本を教えてくれました。 彼がいなかったら、仕事以外の日本の姿を知ることができなかったでしょう。 「ジョエル・ロブション」 を商標登録しなさいと勧めてくれたのも彼です。        日本人に対する印象は今も変わっていません。 今回の震災や、その後起こったことに見舞われながら、皆さんがやっと落ち着きある行動や、尊厳のある態度は世界の賞賛に値するものです。        もっとも当時、ある人にタイの目玉を食べさせられたのには参りました。 一口で呑み込め、と。 その後、何人もの日本人に尋ねましたが 「そんな料理は聞いたことがない」。 その方の冗談だったのでしょう。                 ツイートこの記事をつぶやく
       今回で3回目のジョエル・ロブションの紹介です。        料理人として地歩を固めだした頃、コンパニョナージュ (職人組合) に招請される。 1966年、20歳で入会を許された。        コンパニョナージュは様々なプロが集う組合です。 加わるには2人の推薦人、職業に関するプロフェッショナルな技術、それに加えて豊かな人間性が要求されます。 技術にたけていても、そこに精神性が伴わなければ入会できません。 私はそこで、良い仕事をすることを愛し、素晴らしい仕事の成果を尊重し、労働の価値を大切にすることを教わったのです。        当時は社会的な変革の時代でしたし、68年にはパリで5月革命も起きています。 社会を変えたいと思っていた若者たちは同世代です。 もしかしたら、私も石畳の石をつかんで投げていたかもしれない。 バリカードを作り、デモに参加していたかもしれない。 しかし、良い仕事を至上のものとする道を既に歩み始めていたので、自分の選んだ道に迷わず従いました。         生活を安定させねば、と思っていました。 21歳で家庭を持ちましたから。 4月14日に結婚、7月2日に長男が生まれました。 妻は兄がデートしていた女性の妹です。 実は兄の結婚式で再開したのです。 個人的なことで、今まで言ったことはなかったのですが。 セラヴィ=それが人生です。          実績を積んだシェフなら独立を思い描く。 その前にぜひ体験しておきたいことがある。          レストランには 「経営」 が大事です。 財務だけではなく、人を管理すること。 それが店の経営にはとても大事だと考えていました。 74年にコンコルド=ラファイエット・ホテル、78年からはホテル・ニッコー。 大きなホテルで働き、経営を学ぼうと思いました。        得たものは多かった。 特にニッコーでは料飲部長としてバンケット、つまり宴会からルームサービス、レストランまですべて見ていましたから。 欧州では社会階層によって考え方もメンタリティーも違います。 踏んではならない “地雷” を知り尽くしていないと人の管理はできません。 大企業ほど、人事にも多くの決まりごとがあります。 いずれも街の小さな店で働き続けていたら、知る機会も、学ぶ必要性もないことばかりです。        労組が強い時代でした。 ストがあり、裁判になった。 それでもある時期、労組側の仲介人が 「マスターキーを渡しなさい」 と言ってきたのです。 でも経営側の弁護士は 「絶対に渡しません。 このカギは私たちが所有するものだから」と。 私は経営側について、法的な手続きに基づく命令なら渡さなければいけないのではないか、とおもいました。 しかし弁護士は断固として言い返したのです。 自分が将来、経営者になるなら 「オーナーに所属するものは渡してはならない」 のだとその時、はっきりわかりました。          81年12月に独立。 パリ16区に地震の店 『ジャマン』 を開店する。        この小さな店で翌年すぐミシュラン・ガイドの一つ星、次の年に二つ星をもらい、さらに翌84年に三つ星を獲得しました。 当時最若手の三ツ星シェフです。 一つ星はコンコルドで、二つ星はニッコーで経験済みなので、やはり三ツ星の喜びはひとしおです。 ジャマンで二つ星をいただいた時 「いつか三ツ星が欲しいな」 とは思いました。 でも三ツ星は料理だけでなく、店構えや内装も重視されます。 水道の蛇口まで、お金でなければ、とさえ思っていたのです。        それまでの人生では3つ、うれしく、印象に残っていることがありました。 1つは調理師免許を取った時、そしてコンパニョナージュに招かれた時、もう1つはMOF  (フランス最優秀職人章) をもらった時です。 しかし、ミシュラン・ガイドの三ツ星はやはり、プロのキャリアで一番の幸せです。        同時に、もらったらおしまいではないかとも感じていました。 星を持ち続けることが最も大変なことです。 まだどこか良くできるのではないかと、料理人として常に自問自答を繰り返し、完璧を追い求める。 また企業としてはやはり、たゆまず投資をしていくことが必要になります。 そして最も大事なのは 「完璧には絶対に、到達しない」 と知りながら、それでも一歩ずつ進んでいくことです。        この手記は水曜日の日経夕刊に紹介されていました。        月曜日分を読む。    火曜日分を読む。                      ツイートこの記事をつぶやく
       月曜日に続き火曜日の日経夕刊にミシュラン・ガイド三ツ星シェフ ジョエル・ロブション の手記が掲載されていましたら紹介します。          1945年4月、フランス中部ポワチエ市生まれ。 カトリック一家で、父は石工。 4人兄弟の末っ子で、子供のころは極端な偏食だった。          バターとステーキ。 バターは1日に200グラムは食べていました。 フランス有数の生バター産地が近かったのです。 ステーキにはフリット (フライドポテト) を添えて。 魚もトマトも嫌いでした。 心配した母が 「息子はステーキとジャガイモしか食べませんが大丈夫でしょうか」 と医者に尋ねたそうです。 答えは 「放っておきなさい。 そのうちほかのものも食べだすでしょうから」。        他の食材に触れたのは12歳で中等神学校に入ってからです。 寮生活でステーキは出ませんから、様々な食べ物と向き合うしかなかったのです。 学校生活は時間的にも内容的にもその年ごろには厳しいものでした。 起床は朝の6時半。 食事、勉強、講義にお祈り。 食事中におしゃべり禁止で、夜9時半には就寝です。 ほどなく寮の台所がよりどころになりました。 食事係の仕事に手を挙げたのです。        鍋を洗ったり、ニンジンやジャガイモの皮をむいたり。 お祈りや自習を少しサボることが出来ましたし、12歳で家を出た少年にとって、シスターと働く時間は母性的な愛情を感じられる場だったのです。 それで経済的な事情で学校をやめることになった時、料理の道を志すことにしました。            60年、15歳で見習いとして地元のレストランに入店。 3年間を過ごした後、いくつかの店を経て次第に頭角を現す。          見習いの仕事は非常に厳しいものでした。 朝7時に厨房に行って炭をおこし、終わるのは真夜中近く。 空いた時間は皿洗い、芝刈りや補修工事。 冬はジビエ料理に使う野鳥の羽を抜く気の遠くなるような作業がありました。 最初の半年は休みが1日もなく、倒れたこともありました。 それでもやめよとは思いませんでした。 どこでも同じでしょうから。 まだ 『戦後』 だったのです。 上司は戦争中とても苦しい思いをした人たち。 食べられるだけありがたい、という時代だったのです。        見習いを終えて務めたレストラン 『グラン・トルテ』 で、初めて料理をきちんと学ぶことが出来ました。 見習いの時とは全然違う。 息を吹き返した、というところです。 ホテル学校の教師だったシェフが、教育的な視点から指導してくれたのです。 整理整頓や、順序立てて仕事をするといった非常に細かいところまで、丁寧に教えくれました。          66年、パリの人気店 「ル・バークレー」 に21歳で入店。 将来の三ツ星シェフの具遼は、この華やかな店で確かなものになる。          海運王のオナシス、歌手のマリア・カラスやイブ・モンタン、女優のブリジット・バルドー。 世界のセレブリティーが訪れる店で、実際に私もそうした方々に会いました。 オルトラン (ズアオホオジロ) というスズメより小さな渡り鳥がいるのですが、その高価な食材はサルバドール・ダリの好物でした。 脂が乗った熱々のものを頭から食べるのですが、その際、すっぽりとベールをかぶるのです。 香りが繊細だから。 世界的な画家のそんな食事場面を目の当たりにしました。        この店の厨房で、初めて日本人の友人も出来ました。 日本からはるばる研修に来ていたのですが、それほど当時のバークレーは有名な店だったのです。 彼とは今もやり取りが続いています。 私の店、ラトリエにも来てくれました。 彼は仙台在住なので、今回の震災の影響を心配しました。 電話も通じませんでしたし。 しかし被災から2週間後、フェイスブックで無事が確認でき、ほっとしました。        電子機器は大好きです。 寝る前には10分か15分ほどいじるとリラックスできます。 でも当時はもちろん、パソコンもスマートフォンもありません。 厨房で働きながらレシピを学び、自分でもたくさん作りましたが、書きとめることはできませんでした。 今の若い人にはこうした電子機器がありますから、新しい料理をすぐに撮影できるし、レシピも記録できます。 あの頃の私がこういったものを持っていたら、きっと今頃は20冊くらいの本を書けていたでしょう。        と火曜日の夕刊に紹介されています。      月曜日も読む。            ツイートこの記事をつぶやく
       今週の日経の夕刊 「人間発見」 のコーナーにフレンチの神様と称されている人気シェフ、ジョエル・ロブションの記事が掲載されていましたから紹介していきます。          ミシュラン・ガイド三ツ星、フレンチの神様とも称される人気シェフ、ジョエル・ロブションさん (66)。 パリ、東京、ニューヨーク、ロンドンなど各都市に開いた地震の店を飛び回る毎日だ。          力を入れているのは新しいコンセプトのレストラン 『ラトリエ』 です。 2003年4月、東京の六本木ヒルズに最初の店を開きました。 それから8年がたちましたが、世界に6店あるラトリエはどの店も満席。 出店の要請を今もいただきますが、お断りしています。       ずっと高級フランス料理のお店で仕事をしてきました。 重厚感があり、給仕長がいて、テーブルは整えられ、様々な所作がある。 そんな世界に身を置き、独立して開いたパリの小さなお店で1984年、ミシュランの三ツ星をいただきました。 39歳でした。      51歳でいったん引退しましたが、私と長年働いてきた若くて有能なスタッフたちが 『まだ一緒に何かやりたい』 と言ってくれました。 それで、伝統的なフランス料理店ではなく、モダンで新しい店のコンセプトを作れないか考えました。 『懇親性』 と呼んでいますが、料理が美味しく、でも打ち解けた 『良い雰囲気』 の店です。      現代人はストレスを抱えています。 かつて高級フレンチに足を運んだ方は服装、エスコートの手順やマナーに拘っていました。 今は違う。 レストランではストレスから解放され、リラックスしたいと願っています。 それでラトリエを発想しました。        源は2つ。 1つは人々がはじけ、幸せそうなスペインのタパスバル (居酒屋) です。 もう1つは日本のすし屋。 まじめな日本人が相好を崩すのは鮨を食べているときです。 その両者を掛け合わせたのです。 カウンター越しの厨房で料理人が立ち動き、商材が料理に変っていくさまが見える。 それがリラックスした空気を作り出します。            フレンチの常識を破った店は世界中で人気を獲得。 スターやエクゼクティブに一般客もまじり、祝祭的なムードだ。          先日、東京のお店で夜の厨房に立ちましたが、にぎやかな雰囲気が本当に素晴らしかった。 特に遅い時間は笑い声が絶えず・・・・・。         日本は精神的にとてもきつい時期で、皆さんは様々な不安を抱えていると思います。 でも店では心から解放され、幸せそうで、何の屈託もなく、酸素吸入したかのように生き生きしていました。 それがラトリエのマジックです。      料理人や飲食店経営者の仕事の基本は人を愛することです。 そこで得られる満足は、個人としての満足と同じです。 好きな人や友人を自宅に迎えるなら相手に笑顔になってほしいし、楽しい時間をともに過ごしたい。 それと同じで、来店したお客さんには笑ってほしいし、幸せであってほしい。      『また来ます』 と言ってもらえば最高の幸せです。 それを見出しことが料理人、経営者の最大の目的です。 その意味で、私たちは人を愛さなければならない。          「最高の状態でやめたい」 と人気絶頂のパリの店を閉めたスターシェフ。 新業態で一線に復帰した今、料理の世界をゆく足取りはのびやかだ。          私は今、人間としてとても幸せです。 やりたいことを実現してきましたし、やりたくないことは一切しなくていい。 誰も強制しないし、仕事が嫌ならやめてしまえばいいのです。 ラトリエは私にとって子供です。 そのコンセプトが心から大好きです。 お客さんを前にして、そのお話を聞きながら、未来を予感し、レストランの質を高めるヒントを感じ取る。 そういうことをしています。         15歳の時、集団就職のようにして料理の道に入りました。 見習い時代から文字通り、身を粉にして働きました。 三ツ星レストランを10年以上経営し、常に注目され、大きなプレッシャーを感じていました。 『引退』 するまで、仕事以外のことは何もできなかったのです。 初めて雪山を見たのは45歳です。 だから、50歳で仕事をやめて、バカンスや旅行、それまでの人生でできなかったことをやろうという思いでした。 でも、結局はあまり休めません。        と、月曜日の夕刊に紹介されいています。                    ツイートこの記事をつぶやく
昨夜のエチカの鏡は、中国では常識しつつある遺伝子を検査して超英才教育をしている実態をレポートしていました。   その遺伝子検査をしている会社は 「上海バイオチップコーポレーション」 約20項目の学習能力、音楽、絵画、ダンス等で調べると何が特質しているか99%分かるそうです。   例えば、ACE遺伝子の数値が高ければ、短距離選手に向いている。  NCTN3遺伝子の数値が高ければ、長距離の選手に向いているという。   料金は、58,000円 中国では、一般的なサラリーマンの1ヶ月の給与の1.5倍の金額に相当する。     筑波大学教授 村上和雄先生に言わせると、遺伝子には、ONとOFFがある。 つまり、良い遺伝子をONにして悪い遺伝子をOFFにすると、才能が何倍にも才能が開花する可能性があるそうです。 「ON」とは、陽気な心がONに出来て、「OFF」は、ネガティブの心がONになってしまう。       ==========================   ベストセラー 「天才は親が作る」著者の吉井妙子さんが500組もの一流選手の親に取材した分かった才能をONにする方法とは、   (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
昨日は、大雨になるという予報だから “GOLFは、やめようよ” と連絡があったから家でのんびり・・・・・・TVをつけるとテレビ東京で 「ルビコンの決断  なせあなたは働くのですか? ~日本一優しい会社が問い続けた50年~」というタイトル。   ここ暫く、見ていなかった番組でしたから見てみることにしました。     日本理化科学工業は、創業者が、粉の出ない炭酸カルシシウムと使ってチョ-クを造って国内生産トップを誇る会社で、最近は、「ガラスに書けるチョーク」を発売して大変売れているそうです。 この商品は、2009年度文具大賞に輝いたそうです。     この日本理化化学工業は、知的障害者を多数雇用して業績を上げている会社でした。       大山専務は、大学の同級生は大手の企業に就職して、父の後を継ぎ実質的に経営者として頑張っている日だが、 生きがいを見出せないある日々。    「専務、お客さんです」  「今日は、誰とも会う約束はしていないおけど・・・」    尋ねてきたのは、養護学校の先生で、 「3月で卒業する生徒に、働き口を探して歩き回ったのですが全て断られて・・・・ 何とか、お願い出来ないでしょうか!?」 との依頼に。 大山は、そんな余裕は無いと断るが、養護学校の先生の 「あの子達に働く喜びを味合わせてやりたい!」との熱意に大山専務は、 「2週間だけなら・・」と期間限定の実習雇用を約束。       雇用を約束された林緋紗子さんは、病気がちな母の為に就職を母と大変喜んだ。     1959年に大山専務27歳の時に、鎌原美津子さんと林緋紗子さんが始めて工場にやってきる。 彼女たちは、始めにチョークの箱にラベルを貼る作業から始め、指導員も、2週間だから期待はしなかったが、夕方の5時に作業終了のチャイムが鳴っても作業を止める事がなく貼る続けた。  翌日、林は朝7時には出社して、入り口で待っていた。 指導員の 「こんなに早くどうしたの?」 の問いに 「今日は、1人で来たから早く来た」 と2人でラベルを貼る続け、お昼休みも早くご飯を食べてラベル貼りの作業に戻っていた。 ラベル貼りも上達して2週間の実習期間も終わろうとしたとき、2人は「ずっと働きたいね」と語る姿を大山は見ていた。   養護学校の先生が2人を引き取りに来た時、指導員たちが、「2人を働かせてやってください」と大山に訴えました。  この訴えに大山は2人の採用を決めました。   もちろん、林の家では両親が涙して喜んでいました。     日本理化科学工業では、毎年、知的障害者を受け入れていました。  林は、一段階うえの数を数える作業にあたったが数を数える作業が苦手だった。 他の障害者は、原料を計量する秤の目盛りを正確に合わせることが出来なかったり、 更に、集中力が続かずふらっと出て行ってしまう者さえ表れる始末で、社員からも不満が出てきて、このままでは、経営危機になるかもしれない。 だから、大山は採用をやめようとの決断に迫られていた。  しかし、大山が分からなかったことは、失敗しても熱があっても “休んだら迷惑がかかる” といって会社に出てきて働いていることだった。   大山は、法事に出かけたときに住職に話をすると、人には究極に幸せが4つあります。   それは、   「人に愛されること   人にほめられること   人の役にたつこと   人から必要とされること  の4つ   人から愛されること以外は社会に出ないと出来ない事」 だと諭されるんです。   (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
日経MJに接客アドバイザーの北山節子さんが書かれていましたから紹介します。   「彼女から貰った帽子をなくした!? どうしよう!?」 友人から慌てふためいた声で電話が掛かってきた。 付き合い始めてまだ日が浅く、なくしたなんてとてもいえる雰囲気じゃない、と彼は言う。 そこで彼女にばれたくないんだ・・・・・と、その帽子と同じものを探すことにした。   「デパートに電話して相談してごらん。 そのときに、事情を正直に説明するといいよ」 とアドバイス。 それまでデパートに縁のなかった彼は嫌がっていたもののとりあえず連絡してみると、と言って電話を切った。   後日、「同じ帽子が買えたよ!」 と弾んだ声で彼から電話が有った。 恥を忍んでアドバイス通りにしたところ、問い合わせたお店の販売員がまるで自分のことのように親身に対応してくれたそうです。    友人の話によると、そのお店には似た防止がいくつもあり、電話口での説明だけでは一つに商品を絞る事が出来なかったという。 すると販売員は、「もしよろしければ、携帯電話のマールアドレスを教えていただけませんか? 帽子の写真を送りますので」 そう告げると、友人が教えたメルアドにすぐに3点ほど写真を送ってきてくれたそうだ。 ようやく見つけて受け取りに行くとときも、いつもなら敷居が高いと感じるブランドショップなのに、足取りは軽かったという。   個人情報の取り扱いは繊細で難しい。 その販売員の行動は行き過ぎたかもしれい。 けれど、電話口のお客様の気持ちに寄り添い 「共感力」 を発揮した販売員の行動は、そのお店の熱烈なファンを1人増やしたのである。   とエピソードを紹介していました。   お客と販売員の共感がとても大切だということです。     先日、日本橋会での話のなかで、「ユニクロは、定額商品なのにレジでの店員態度はとてもイイ  売れる原因が分かるような気がする」 との発言も有りました。  自分に置き換えれば、自分だったらどうされたら気持ちイイか考えれば自ずと答が出てきますよ。   接客の思考能力をアップすればいいんです。 ツイートこの記事をつぶやく
   J-WAVE TOKYO   MORNING   RADIOにAHAKAHの代表でクリエイティブデレクターの福王寺朱美さんが、今回で3回目の出演していましたから紹介します。      AHAKAHの作品はは、「アート」と「ジュエリー」の融合で作られています。 それは、繊細でエレガント。      デザインは、デザイナーが10名が、作り出しているのですが、福王寺さんが展示会の為に『テーマ』を決めて例えば、ラブとウイングで“ラビング”とか“バディナル”とか永遠と光で“エターナルライ”とこういうことをやりたいとテーマを決めてデザインをしてそれに沿って作品を作ってチェックしてディレクションして作品を作っているそうです。      オリジナリティを作る出すには、技術的には高いと思っていてします。とのこと。 13年前に学生たちと始めたのですが、最初は下手だったけどいっしょにやっていくことで高められ、いっしょに、技術的には下手だったが苦労していちからやったから今がある。      ジュエリーって、贅沢品だということがありますが、本物のジュエリーを日常的に付けられるようにしていきたいと思ったので買える価格に拘ったそうです。        AHAKAHのコンセプトは、『世代』 『国境』 『時代』 で、時代を超ええるには本物の素材でなければならなかった。 贋物だと変色したり飽きてしまうから。 自分たちは、一からなにもかも作ってきたから出来た事。        海外に行く事が多い環境でもあったし、前の主人と美術の仕事をしていて美術館に行く事が多く、自然に絵画を見たり彫刻みたり、後は、学べるというのは、自然のなかで海とか木に光が差している時下から見上げると透けて見えるような・・・揚力とか自然のなかからが一番だという。      自然は素晴しいと語りました。       ツイートこの記事をつぶやく
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