本日も日経夕刊の “人間発見” のコーナーにスタートツゥディ社長 前沢友作氏が紹介されていましたから紹介しす。          アメリカ滞在中に日本のみんなにも聴いてほしい音楽CDをたくさん買う。 日本に持ち帰り、通販販売を始める。          アメリカから日本の友達にCDを送っていたらとても喜ばれました。 自分の気に入った音楽がみんなにも聴いてもらえることが分かり、日本に戻ってから音楽活動の通販ビジネスをスタートしました。 1995年のことです。 バンドは大手のレコード会社に属さないインディーズとして活動をしていました。 二足のわらじです。       両方とも順調でした。 自宅がCDだらけとなり、注文を受け付ける電話も自宅と兼用で、繁盛しすぎて家族には迷惑を掛けていました。 手狭になったので事務所を構え、1998年に会社を作ることにしました。 今の会社の誕生です。 会社設立の手続きはすべて自分でしましたよ。 バンド活動では大手のレコード会社から声が掛かり、メジャーデビューへと駒を進めました。      ただ、暫くしてバンド活動で違和感を覚えるようになったのです。 インディーズ時代は何でも手作りでした。 ジャケットのデザイン、営業活動まですべてです。 ところがメジャーになると、大人が引いたレールの上に乗っている自分たちがいました。 自分たちの曲を聴いてもいないレコード店の販売担当者に頭を下げることも。 取り巻きが多くなり、CDを5~6枚出した頃には創作意欲もうせてしまいバンド活動も休止と相成りました。 ぼくがリーダーだったので 『もうやめようよ』 と。 メンバーはその決断を受け入れてくれました。              事業は好調だったが、問題が勃発していた。 社員がぼつぼつと辞めていったのだった。          メジャー時代は全国で営業やライブ活動をしていたので会社を留守にしがちで、社長である私が1カ月以上、会社に顔を出さないこともザラ。 月末にお給料を渡す時に不在だったこともあります。 自分は全く気に留めていませんでしたが、社員からすると会社がどうなっていくのか、心配だったに違いありません。 社員が辞めていくのを見て、それに気付き、猛烈に反省しました。 バンド活動を休止したのはこうした事情もあったからです。 年間の売上高は1億円くらいになっていました。      音楽の好きな人はファッションに敏感な人が多かったので、通販の取扱品目に衣料品が加わるのは自然の流れでした。 やはり、自分がカッコイイと思った商品を仕入れて、気に入ったくれたお客さんに買っていただいたらいいと。 ちょうど、ネット通販の勃興期でもありました。 システム関係の本を読み漁り、自分で通販サイトを立ち上げました。              人生観や音楽感を変えたアメリカが同時多発テロの標的となったことに衝撃を受ける。 平和で戦争のない世界が来るようなメッセージを企業理念にこめたいと考える。          自分はこの先、どうやって生きて行けばいいのか、なんのために会社をつくり、生きて行けばいいのか。 そんなことを真剣に考えていました。 バンド時代から反旗・平和に関心もありました。 世界平和を願うジョン・レノンのイマジンの歌詞は大好きです。 世界平和をどんな言葉で表現すれば僕にあっているか。 それはファッションを通じて、笑顔のある世界だと思ったのです。 『世界中をカッコよく、世界中を笑顔に』。 これが、企業理念です。        この企業理念を気に入って、通販サイトのZOZOTOWNなどで商品を買ってくださるお客さんはたくさんいます。 強い思いでこの仕事をしていることを理解していただいているようです。        2007年に東証マザーズに上場しました。 何時もはTシャツなど気楽な格好で仕事をしていますが、上場の審査の時の面接にはスーツを着ていきましたよ。 上場のセレモニーでは東証のお偉い人はが 『おめでとう』 と言ってくれました。 褒められたことのない人生だったので嬉しかったです。                           111014_192242      上場ののお祝いで金を鳴らす時に、着ていたTシャツの上におもむろにスプレーで 『NO  WAR』 (戦争反対) と書きました。 東証関係者は驚かれましたが、見学に訪れていた学生や一般の方から温かい拍手をいただきました。 と、紹介されています。        明日は、4回目を紹介します。                    ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の “人間発見” のコーナーにスタートトゥディ社長 前沢友作氏が紹介されていましたから2回目の紹介です。          中学受験に失敗して地元の学校に入る。 やんちゃなのは変わらず。 ギターを弾くようになりファッションもロック系に凝り始めました。          中学受験のための塾に通っていましたが、実際にはあまり行かなかったです。 では、どこでサボっていたかというとパチンコ屋さんです。 といっても大人っぽい友達がいて、彼と一緒にパチンコ屋に入り、床に落ちている球を拾って打っていました。      地元の中学校でも相変わらずたんちゃな生活です。 ちょうどバブル経済が始まったころです。 日曜の夜8時から始まるテレビ番組 『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』 を良く見ていたのを覚えています。 あの破天荒ぶりが面白かったですね。 不良の友達もいましたよ。 そんなにワルではなかったと思いますが、ある日、学校の先生から 『悪の枢軸はお前だ』 と決めつけられたこともあります。 小学校時代からそうだったのですが、『おかしい』 と思ったら相手が大人だろうが、すぐに口に出すところが可愛くなかったのでしょう。      でも、学校の成績は良かったです。 ほとんど一夜漬けで中間や期末試験に臨みましたが、必ず上位にいました。 両親は学校内で1番を取ると喜んでくれたので、もっとやってやろうと。       ギターを買ったのは中学3年生の時です。 東京・御茶ノ水の楽器街で約2万円だったかな。 弾き方は友達のお兄ちゃんに教えてもらいながらの自己流です。 ボン・ジョヴィ、メタリカ、ガンズ・アンド・ローゼスが好きで、細身のジーンズや黒いTシャツを着て演奏していました。              高校は早稲田実業に合格。 1年生の時は皆勤賞だったが、2年になると次第に学校から遠ざかってしまう。            両親の勧めで早実に入ったので喜んでくれましたよ。 親戚中の 『期待の星』 になったようです。 なぜ、学校に行かなくなったのか。 こんな光景を見たからです。 満員電車に揺られている会社員の姿が、切なく見えてしまったのです。 周りをみるとみんな寡黙で暗い表情でした。 1時間半の通学時間がとても無駄のように思えてしまいました。       バンド活動が楽しくなり、スタジオ代を稼ぐためにアルバイトに精を出す生活の始まりです。 建築現場の仕事が多かったですね。 子供の頃から家を造っている現場を1日中、見ていても飽きなかったからかもしれません。       出席日数が足りずに退学を覚悟しました。 でも担当の先生は 「なんとかするから、退学だけはせずに卒業するんだぞ」 と励まし、私の生き方を応援してくれたのです。 両親は学校に何度も呼ばれて先生と話し合っていました。 当然、職員会でも議題に上がっていたようです。 先生は 「バイトの時にはちゃんと学校に電話するように」 と。 この先生は夢を実現するための活動と評価してくださいました。 そんな評価は学校には有りませんでしたから、ご迷惑をおかけしたと思います。 何とか卒業したものの、大学には行きませんでした。              卒業とほぼ同時にアメリカに渡る。 バンドの武者修行のためだった。 自分が思い描いていた世界と違う一面を見て考えを変える。          初めてのアメリカはとても過ごしやすい場所でした。 ライブハウスに行くのはバスで、乗客もフレンドリーな雰囲気が気に入りました。 ライブハウスは日本のように薄暗くなく、観客も健康的でどこかキャンプにやってくるような感覚のようでした。 ドラッグ、アルコール、破壊的なことを日本では連想していましたが、全く違いました。 バンドのみんながライブハウスでピザなどを振る舞ったり、親しくなったバンド同士が作ったCDやTシャツを売るのを手伝ったり、和気あいあいです。      親しくなったバンドの曲を聴いていると世の中を良くしようとするメッセージが込められている作品が多いことに気づきました。 いままで自分がやってきたジャンルの音楽はやめ、音楽にポリティック (政治的) なメッセージがあってもいいかなって思ったのです。        アメリカでの生活は約6ヶ月。 世界観が変わった体験をしました。          と、2回目は紹介されています。  明日は3回目をご紹介します。                ツイートこの記事をつぶやく
       今週の日経夕刊の “人間発見” のコーナーには、スタートトゥディ社長 前沢友作氏が紹介されていましたから今日から紹介していきます。                          111012_172014        ユナイテッドアローズ、ビームスなど有名アパレルがこぞって出店するファッション通販サイト 『ZOZOTOWN(ゾゾタウン)』。 運営するスタートトゥディ社長の前沢友作(35)さんはミュージシャンとして活動しながら通販事業を始めた。 サイト立ち上げから7年、今では日本最大級のファッション通販サイトに成長した。          「こんな洋服をお客さんに着てもらいたいな」  「この服で自己表現してもらえるかも」      商品の買い付けを担当するバイヤーはアパレルメーカーの展示会などではこんな気持ちで商品を選び、仕入れています。      ファッションが大好きな社員が、その大好きな洋服をお客さんに届けるのです。 さまざまなブランド商品やまだ一般には知られていない商品を仕入れて売るセレクトショップのような存在です。      ブランド数は1600を超え、会員数は約370万人になります。 洋服以外でも、ファッション性の高い靴、バック、服飾品や化粧品なども幅広く扱っています。       サイト名の 『ZOZO』 は創造の下の文字 (ZO) をつなげた造語です。 想像と創造が行き交う街 (タウン) を意味します。 社名のスタートトゥディは、バンド時代に効いたゴリラ・ビスケッツというバンドの曲名からのものです。 当時、付き合っていたガールフレンドが 『いいんじゃない』 というのでそうしました。              子供の頃から音楽やファッションに親しんでいた。          両親の影響が大きかったですね。 経理畑が長いサラリーマンの父はクラシック音楽が好きで、側でよく聞いていました。      キャリアウーマンではありませんが時折働く母は、ドイツの自動車のビートルに乗っていました。 黄色の車体はカッコよかった。 アルフィーのファンで、コンサートに連れて行ってもらったのを覚えています。      もともと服にも関心が有ったので自然と自分の着る服も意識するようになりました。 小学校4年生の時に古着のリーバイスをはいていました。      母から時折言われた言葉は 「ひと様に迷惑をかけてはいけません」 くらい。 母はとても教育熱心で、電子オルガン、トランペット、水泳、公文式などいろんな習い事に通うことになりました。 そこで自分の基礎になる部分が作られていたのでしょう。 コツや規則性が分かるとなんでも上手に、早くできました。              勉強もそこそこできたが、相当なわんぱくでもあった。          子ども時代を振り返ると目立ちやがり期、内向期、わんぱく期に分かれるかもしれません。      幼稚園では跳び箱などの運動が得意で、年少の時は年長さんよりも運動は何でもこなせました。 人に見られるのがとてもうれしくて、さらに頑張っちゃって。 それは小学校低学年になると、反動で人見知り、内気な子供になっていました。      名前の友作は友達をたくさん作るようにと名付けられたものですが、なかなか友達が作れなくて、名前負けでしたね。      再び活動的になったのは高学年です。 勉強もそこそこ出来たので女の子からモテモテでしたね。      小柄で俊敏だったので運動会の組体操で作る五重塔のてっぺんは指定席でした。 父はこの才能を見込んで旗手にさせたいと考え、競馬学校の資料を取り寄せていました。      ちょっとした小遣い稼ぎをやったこともあります。 近所のおじさんからクワガタがいる場所と取り方を教えてもらいました。 自宅の最寄りの秋から5駅くらい離れた新京成線くぬぎ山駅 (千葉県鎌ケ谷市) にある小さな森で面白いようにクワガタが捕れ、それを学校で量り売りしたものです。 今のビジネスの原型だったかもしれません。      家庭科で嫌いなミシンの授業の時には前もって糸を巻くボビンを隠し、授業を出来なくしたこともあります。 中学校を受験しましたが、残念ながら滑って落ちました。 まあ、それなりの理由はありました。        今日は1回目を紹介しました。 明日、2回目を紹介します。                  ツイートこの記事をつぶやく
       本日も、日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーにマンダム社長 西村元延氏が紹介されていましたから紹介します。          マンダムは半世紀前にアジア市場に参入した。 なかでも連結売上高の22%(2011年3月期)を占めるまでに育ったインドネシアを訪問すると、どこの島でも歓迎の横断幕と黒山の人だかりが待っている。                        111006_180310        インドネシアで1人当たりの国内総生産(GDP)が3000ドルを超えたといってもそれはジャワ島中心お話で、他のエリアが経済成長の恩恵に浴するのはこれからです。 現地の地方都市では整髪料を小分けにして、1袋2~3円まで単価を下げないと売れません。      シンガポールや台湾、韓国、香港、あるいはタイのバンコク、マレーシアのクアラルンプールのような大都市は日本から輸出した商品がそのまま売れます。 しかしほかの地域向けではローカル化が欠かせません。 フィリピンの 「サリサリストア」 という小さな雑貨屋で薬を1錠単位で売っているくらいです。 新興国でも経済が成長すれば大きな容器で売れるようになります。      インドネシアの製品は日本の延長線上にある商品とは違います。 独自に進化し発展しました。 日本国内では女性用化粧品の強化が課題ですが、インドネシアでは女性化粧品も強く、最近のヒットは詰め替え用のファンデーションです。 現地スタッフのアイデアで蓋をつけ、ケースに詰め替えるだけでなく、単独でも使えるようにしました。 日本の本社からは絶対に出てこない発想です。 現在ではインドネシア製の 『ギャツビー』 をドバイ経由でアフリカ諸国にも輸出しています。       島が1万7000以上もあるインドネシアで、量販店はもちろん、何百万店もある家族経営の小さな屋台まで商品を効率よく送り届けるには至難の業です。 極論すれば海外進出と現地生産は誰にでもできます。 実は一番難しいのは流通網。 私たちは華僑の方とパートナーシップを築いて乗り越えました。          スハルト大統領が辞任に追い込まれた1998年のインドネシア暴動。 マンダムの工場にも暴徒は迫ったが、「ここはインドネシアの会社だ」 と擁護する声が上がり難をの免れました。        最初に海外進出したのはフィリピンでした。 祖父の西村新八郎が社長だった時代のことです。 神戸に出先を構えていた華僑の貿易商の方がフィリピンに帰国する際、お土産に当時の主力商品だった整髪料 『丹頂チック』 を持ち帰ったのが始まりでした。 アメリカの映画スターのようなリーゼントヘアーに仕上げるのに便利だと評判なり、技術提携の要望もあって1958年に会社が発足しました。      次に有望市場と着眼したのはインドネシアで、1069年位工場がスタートしました。 1ドル360円の時に、むこうは326ルピアです。 インドネシア通貨の方が強いから日本向けの生産拠点ではなく、地元で作って地元で売るしかありませんでした。 技術提携ではなく最初から人、モノ、金を投入した合弁会社で、これがアジア市場への実質的な第1歩でした。 容器や包装材料から現地生産し、エアゾールの充填ラインまで整備してコストを抑えました。      1993年にはジャカルタ証券取引所に上場を果たし、従業員約4200人のうち、日本人は十数人。 役員の半数はインドネシア人が占めています。          マンダム製品のディスプレイの出来栄えを争うコンテストを毎年、開催している。        コンテストではびっしり隙間なくマンダム商品を山積みにしたバイクや、主力ブランドの 『ギャツビー』 一色に染まった店舗が次々と登場してきます。 原色を多用した鮮やかな展示には目を奪われます。      優勝した販売店は機会があるたびに訪問します。 すると想像もつかないほど大歓迎を受けます。 一族総出で待ち構えており、握手攻めに遭い、食べきれないほどの食事やケーキが出ます。 これで関係が深まります。 おかげで大きな島は制覇しました。         人間は生存の欲求が満たされれば次は身繕いにお金を使うようになります。 アジア市場の立ち上がりは早く、15~16年にはアジアが日本の売上高を上回るでしょう。        と、4回目の紹介でした。 明日が最終回となります。          ツイートこの記事をつぶやく
       今日も日経夕刊の “人間発見” のコーナーにマンダム社長 西村元延氏が紹介されていましたから3回目の紹介です。          夏の全国的な節電が引き金で、顔の脂を取るフェイシャルペーパーの売り上げが前年比1.4倍となり、マンダムは2012年3月期の業績予想は上方修正した。 好調な新興国ビジネスとの相乗効果で勢いづく同社だが、本当につぶれかけたことがある。        1978年2月2日、父で社長の西村彦次は 「4月1日を期して代理店を通さない直接販売に移行する」 と宣言しました。 石油ショック後の不況が尾を引くなか、乱売合戦に巻き込まれるのを避けるための方策でした。 全国77カ所に拠点を構え、販売会社は450人もの社員を抱えていました。      高砂香料工業を経てマンダムに転じた私は、入社2年目で大阪の中央営業所に配属されました。 とにかくどこでも売り込みに行きました。 急行電車が止まる駅前の大きなか化粧品店はしらみつぶしに回りました。 さすがに鮮魚店は無理でしたが、雑貨店には製品を置いてくれるように飛び込み営業を続けました。      メーカー本位の強引な変革は流通機構は受け入れられず、猛反発を受けました。 それでも 「自動販売機はあんなにたくさんあるのに売れている。マンダム製品ももっと売れるはず」 という精神が横行し、お店に商品を押し込むような状況に陥りました。 仕事が終わると同僚と一緒に営業所近くの居酒屋で熱燗を1人5合ずつ頼むのが日課になりました。 飲まずにいられなかったのです。             直販は赤字続きで失敗、わずか2年で代理店経由に戻した。 借入金は資本金の20倍に膨らんだが、大きな財産も残した。        会社の存続が危ぶまれる期待に至り、父は社長を退き、役員も一新しました。 叔父の西村育雄は後任社長に就き、販売会社の社員は2200人まで削減され、本体でも希望退職を募りました。      けれどもプラスの面もありました。 直販体制を支える新ブランドとして投入した 『ギャツビー』 は33年たった現在でも主力です。 商品名は当初計画では 『メンズ・ラブ』 となる予定でしたが、F・スコット・フィッツジェラルドの小説 『華麗なるギャツビー』 を読んで感銘を受けた父が差し替えました。 著作権や商標権などの課題を克服してなんとか実現しました。      必死で開拓した新しい販路も貴重な財産になりました。 ちょうど台頭してきたホームセンターのレジ横に試験的に商品の陳列棚を置いてみました。 『ついで買い』 を誘発して良く売れ、感激しました。 コンビニ 『セブンイレブン』 の1号店に置いてもらい、ドラッグストアにも食い込みました。 後にこれらはすべて成長チャンネルに育ちました。          経営再建は経営、人事から福利厚生に至るまで様々な意見や要望をカードに書き込むことで始まった。        1981年6月、全役員が比叡山のホテルに合宿し、会社から集約した1万枚のカードを張り出すと会議室の壁が埋まりました。 文化人類学の川喜田二郎氏が開発したKJ法に基づいてカードを関連づけて、16のプロジェクトにまとめました。      これを土台に中期経営計画 『MP-1』 (1982~87年) が始まりました。 直販時代の売り上げ至上主義と決別して、支店を180度転換した呼び方が次々と誕生しました。 『売り場』 は 『販売促進』 は 『選択促進』 へと変わりました。 「生産者発は生産者着の返品である」 という耳の痛い指摘もありました。      1984年から、A4判の3分の1に統一した情報カードに日頃の思いや提案を毛いて提出する制度を作りました。 新人は枚数が評価対象になるから必死です。 年間6万枚集まるカードには私も含め全役員が目を通していました。 気になる内容があると提出者にすぐに電話をかけました。 この中から無香料化粧品 『ルシード』 が生まれました。      MP-1の3年目で営業数字が好転し、1988年に店頭公開を果たしました。 現在は東証1部上場で無借金経営です。 会社の窓から外を見ると北隣のマンションが見えます。 経営危機の時に借金を返済するために処分した土地の上に立っており、否応なしに目に入るのです。 過去の失敗が思い出され、私にとっては慢心を戒めるモニュメントのようなものです。         マンダム社長 西村元延氏の3回目の紹介でした。 明日もお楽しみに!!                  ツイートこの記事をつぶやく
       本日も日経夕刊 “人間発見” のコーナーにマンダム社長 西村元延氏が紹介されていました。        幼い頃は体が弱かった。 心配した両親は改名を決断した。        いわゆる 「自家中毒症」、今でいう 「周期性嘔吐(おうと)症」 でした。 胃腸などの病気が無いにもかかわらず、繰り返してはいてしまうものです。 特に乗り物酔いが激しく飛行機が飛び立つ前の誘導路を滑走している段階で気分が悪くなるほど。 心配した両親は、私が小学校低学年の時に名前を 『基雄』 から今の 『元延』 に改めました。      改名の効果か、成長したせいかはっきりしませんが症状は治まり、小学校4年生くらいになるとバスの後部座席に乗っても平気になっていました。       小学校高学年になると、帰宅するやランドセルを放り出して虫取りに行くか、ミミズやふかし芋を餌に魚釣りです。 近所の空き地でソフトボールをしていると迎えが来て、クラブを渋々、習字道具やそろばんに持ち替えて習いごとに行きました。 堺市の自宅の近くにある浜寺公園も遊び場でした。 大きな公園で、プロ野球 「南海ホークス」 (現福岡ソフトバンクホークス) の選手が自主トレーニングでランニングしていたのを覚えています。        明治学院大学経済学部を中退した後、1975年に高砂香料工業に入社。 配属先はたった一人の部署だった。        マンダムが27年に創業した当時の社名は 「金鶴香水」 でした。 「1滴、2滴、3滴、素敵(すてき)」 というしゃれたコピーで知られた会社です。 いずれマンダムに戻らなければならない身ですが、祖業の香りにかかわる仕事に就こうと決め、高砂香料工業にお世話になりました。      任されたのは日本人の嗜好など香りに関する様々な傾向を調査する仕事。 配属されたのは私一人だけ。 かなり自由裁量が許され、調査では、団地の世話役を口説いて住民からアンケートを回収する組織を作り、洗剤やシャンプーの香りに関するデータを集めました。 トップブランドの優位性は何か、香りの何が良かったか、花とか柑橘系のどっちの香りが受容されるかなどの設問を考え、分析するのです。       独学で統計学を勉強して、データを分析しました。 マンダムは1978年に 『ギャツビー』 『スポルディング』 という化粧品の2ブランドを至上に投入しました。 発売に先立ち、高砂香料でマンダム向けに香りのサンプルデータ解析を手掛けたのは、実は私です。          香りビジネスが持つ面白さのとりこになるが、1977年マンダムに入社した。        経営の重要なツールが小型携帯端末ハンドヘルドPCでした。 店頭の情報を入力したりするのに利用していました。 必要に迫られて売り上げのデータを分析するプログラムを自作しました。 小さなハンドヘルドPCを飛行機 「YS11」 に持ち込み、揺れる機内でBASICのプログラムを組みました。      1980年ごろ釣り好きな人に和歌山県の湯浅に連れて行ってもらいました。 すっかり釣りにはまり、徳島・鳴門と和歌山・湯浅の決まった漁師さんに頼んで、船を出すようになりました。 遊覧船ではなく職業魚師の船です。 全幅に信頼を置き、着替えの服も預け、時間が有れば出かけていきます。 船べりから糸を垂らして、鯛の手釣りを楽しみます。      魚拓は取らず写真も撮りません。 釣った肴は自分で研いだ包丁で捌き、刺身や干物にします。 量の多い時は保存ができるように真空パックにする機械も買いました。      あんなに乗り物が苦手だったのに、いつのまにか船を仕立てて釣りに出かけるようになりました。 飛行機の中では小さなハンドヘルドPCを操作している様子を見れば、小学校時代の仲間は腰を抜かすことでしょう。      8月に出張でパプアニューギニアの代理店に行って来ました。 日本から直行便で6時間半のフライトも今では全く問題なし。 現地の方たちと親交を深めてきました。 酔うと午前3時、4時でもボウリングに行きます。 若い人にも勝てます。 厳密に言うと勝までやります。 アベレージは180くらいで、200はめったに超えませんが、体は頑丈になりました。 人間、変われば変わるものです。        と2回目の紹介でした。                    ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーにマンダム社長 西村元延(にしむらもとのぶ)氏が紹介されていました。                       111003_193837         ユニークな広告宣伝でしられる化粧品大手マンダム。 1970年、映画俳優チャールズ・ブロンソンを起用したCMが大成功し、商品名の 『マンダム』 は翌1971年には社名になった。 危機を何度も乗り越えた会社を引き継いだ社長の西村元延さん(60)も大物路線を続ける。        入社前のことですが、カルフォルニア大学バークレー校のサマースクールに参加して帰国すると、アメリカでまったくやっていない英語の歌がラジオ番組でリクエスト曲の1位になり、繰り返して流れているのに驚きました。 ジュエリー・ウォーレスが歌う 「男の世界」 です。 レコードは120万枚を売り上げる大ヒット。 父の会社がCMのテーマソングに使っていると知ってさらにビックリしました。      1968年制作の映画 「さらば友よ」 で、2枚目のアラン・ドロン以上の存在感を示したブロンソンですが、当時は、まだ脇役が多かった。 CM出演を打診すると 「これが私の初主演映画だ」 と快諾したようです。 本格的なハリウッド・ロケを敢行し、演出は映画監督の大林宣彦さん。       『う~ん、マンダム』 という決め台詞は流行語になりました。      実はこの時、会社は危機的状況でした。 戦前からの主力商品 「丹頂チック」 は、1960年代に入ると顧客の高齢化で売り上げが伸び悩み、競合メーカーの液体男性化粧品にも押されていたからです。 起死回生の新製品が 『マンダム』 で当時の年商の3分の1を宣伝・販売促進に投入しました。 予定の3倍も売れ、会社は勢いを取り戻しました。          大物俳優を起用したCMで先べんを付けたマンダムは、その後も話題のCMを連発する。        1983年、俳優の松田優作さんを起用した 『ギャツビー』 のCMは本当に完成度が高かった。 15~30秒で結論が出るCMに松田さんは強い関心を示し、スポンサーである私たちとも徹底的に議論を詰めました。 監督には 『家族ゲーム』 でコンビを組んだ森田芳光さんを強く推薦しました。 マンダムの時に大林さんたちは制作チームがブロンソンを推したのとは逆でしたが、出来栄えは最高。 松田さんが泡で整えるシーンはとてもスマートで、ヘアフォームは前年比20%増の売れ行きを示しました。      松田さんと初めて会ったのは誕生日の9月21日です。 東京・青山にお酒を飲みに行きました。 その後、親しくなり、1983年度キネマ旬報ベスト・テンの第1位に 『家族ゲーム』 が選ばれた時、スピーチしました。      松田さんと飲んでいる最中はずっと映画の話です。 「日本のアニメが海外に進出しているのに、映画が出られないのはおかしい」 と熱く語り、「外国映画は製作費を50~100億円かけている。 日本でもスケールの大きな映画が撮りたい」 とためらわぜに本音をぶつけてきました。 人間としての、役者としての松田優作にあこがれ、ほれ込みました。 取締役になったばかりなのに 「社長になったら映画に金を出せる」 と迫られたのには参りましたが・・・・。      話は飽きたりつまらなくなってくると松田さんは黙り込み、そのうち誰かに電話を始めます。 やってくるのは原田芳雄さん、安岡力也さん、ロック歌手の内田裕也さんらです。 オスの集団の中に私が1人交じっていて、とにかく怖かったことは覚えています。          現在も大物路線は継続中。 2006年からはキムタクを起用した。        整髪料にはいろいろな種類が有りますが、ワックスは日本初の基材で、髪質別、スタイル別の品ぞろえが充実しています。 動きのあるヘアスタイルを提案するために 「ムービングラバー」 と命名し、歌手で俳優の木村拓哉さんをキャラクターに商品を展開しました。      髪の毛を立ち上げたり、毛束を作って動きを表現するヘアスタイルが一気に広がり、インターネットの世界では 『アジアン・ヘア』 『アニメ・ヘア』 などと呼んで盛りあがっています。 こうした髪型をどうやって作るか解説した英語ページを8月、SNS 「フェイスブック」 の中に立ち上げました。        明日は2回目を紹介します。                     ツイートこの記事をつぶやく
       今日で建築家 妹島和世(せじまかずよ)氏を紹介するのは3回目です。           日本女子大学大学院を修了し、伊東豊雄設計事務所に入る。 6年間の修業時代は 「怒られてばかり」 だった。    最初に設計助手を務めたのは、映像作家の萩原朔美さんの住まいです。 伊東事務所で新しい建築のあり方を考える勉強会を開いて、私はそのまとめ役を務めていました。 その案が雑誌 「クロワッサン」 で紹介されたところ、萩原さんが 「建ててみたい」 と連絡をくれたのです。      1週間で1回、伊藤さんに設計や構造、設備などの進み具合を見てもらうのですが、その数日前になると食事が喉を通らないほど緊張しました。 伊東さんは 「ああしろ、こうしろ」 と言わない方。 自分なりに必死に関げて案を持って行っても、つまらないものだと 「見る必要もない」 という感じで、打ち合わせが成立しない。 本当に怖かったですね。 数か月やり取りを重ねるうちに、ある時ポンと伊東さんの世界に飛躍するのです。      ある日、設計図を見せたところ 「隠れるので大丈夫です」 と答えたところ、「それじゃ駄目だ」 と怒られたことがあります。 建築の接合部分を原寸で描くなど細部を詰める大切さを学びました。      実は、独立してからも迷った時には、頭の中に “仮想・伊東” を置いて、「伊東さんならどう言うだろう」 と考えたものです。 それを踏まえて 「自分ならどうするか」 と発展させていきました。               事務所を卒業するように30歳で独立。 なかなか仕事が決まらず事務所をたたもうと考える。        独立したのは1987年、男女雇用機会均等法が施行された翌年で女性にもチャンスという機運に満ちていました。 展覧会などから声が掛かり、友人から 「僕も女性の名前でデビューしようか」 とからかわれたほどです。        仕事はいつくか紹介してもらえました。 ところがなかなか契約まで至らない。 設計を提案しても会社が倒産してしまったり、連絡が取れなくなったり、今思えばバブル崩壊の前兆だったのでしょう。        世の中子景気に沸く中で、「この100万円であと1年半どう暮らそうか」 と頭を悩ませました。 それでもつづけられたのは、夢があったから。 今自分で考えられるもので、とにかく新しい建築を作りたかったのです。 テレビCMのセットの設計や家具のスケッチといった仕事も受けながら、なんとか事務所を維持していました。        2年でとうとう運転資金が尽きてしまいます。 スタッフと事務所解散旅行をしようとタイ格安ツアーに申し込みました。 そうしたら思いがけず、熊本県の再春館製薬女子寮の設計が決まりました。              1991年に竣工の再春館製薬女子寮。 大胆な空間が話題を呼び、建築界にデビューを果たす。          女子寮は、80人の新入社員が研修を兼ねて共同生活をする場。 「みんなの家」 を作ってほしいという要望でした。         数カ月プレゼンを繰り返し、巨大な空間にベットを点在させ、2階に共有のリビングやお風呂が浮いているような案にほぼ固まりました。 ところが詰めの段階で 「病院みたいで駄目だ」 とひっくり返さた。 もう降りようと思いましたが、出来ることをやろうと思い直しました。        最終的には幅9メートルの巨大なリビングルームをつくり、寝るときだけ4人一部屋の小さな寝室に入るようにしました。 大きなリビングには洗面所を5カ所に離れて配置しました。 朝洗面所に向かう時、皆が一方向に向かうのが嫌だったのです。 設計をするときは、「どう使ったら楽しくなるか」 と考えます。 人と交わりあうけど、自分がどのように過ごすか選択できる。 そんな空間を作りたいと思っています。        すんなりと発想がわき出ることは、ごくまれです。 準備体操をするように模型を作りながら、イメージを膨らませます。 建築全体や原寸大の部分模型、街全体をふかんするものなど。 再春館でも大小100以上作りました。          今では模型を作っては議論を重ねる。 運河に面した750平方メートルの倉庫をオフィスにしていますが、至るところ模型の山です。 決して効率的とはいえませんが、地道な作業の中ならアイデアが生まれてくるのです。                    ツイートこの記事をつぶやく
       昨日に続き日経夕刊の人間発見に建築家 妹島和世(せじまかずよ)氏のインタビュー記事を紹介します。          父は日立製作所の技術者で、茨城県日立市にある社宅で育つ。 3人兄弟の長女で弟が2人。 幼いころから、住まいに関心を持っていた。           社宅暮らしだったので、周りはすべて同じ間取りで同じような核家族。 ところが、隣にアメリカ人社員が住んでいて、その家を訪ねた時に驚きました。 同じ間取りなのに、廊下もリビングもトイレもすべて同じ材質で統一されていて、まるで違う家のようだったのです。海外の生活を垣間見たようで、憧れたものです。 小学校低学年の頃だったと思います。        その少し前に、母が定期購読していた 『婦人乃友』 という雑誌で、建築家の菊竹清訓さんお自邸 「スカイハウス」 を目にしました。 4本の太い柱で支えられ、住まいが宙に浮いているような設計です。 しかも大きなワンルームで柱はなし。 周りをぐるりと広縁のようなものが囲んでいます。 「こんな家があるのか」 と衝撃を受けました。 その頃、我が家でも家を建てようという藩士が持ち上がり、いろんな間取り図を描いては、親に見せていました。 計画はとん挫し実現しませんでしたが。        小学校高学年になると、人形遊びに夢中になります。 近所の友達と人形を持ち寄っては、段ボールなどで家やダンス会場といったものを作っていました。 原っぱでも、家電の入った木製のフレームで家を作ったり、草で屋根を作っていました。        ところで、父は一風変わった人でした。 仮定ではほとんどしゃべらない。 でも、私の友人が遊びに来ると、何か話さなくてはいけないと緊張するようで、突然英語で話し始めたりする。 日本人の子供に対して、です。 別に英語が得意だったわけではありません。 むしろ専業主婦の母の方が英語は上手なくらいでした。 独学で勉強して、個人レッスンも受けていたようです。        母はおそらく仕事を持ちたかったのではないでしょう。 私には 「結婚してほしいけど、仕事もしてほしい」 と思っていたようです。              高校まで地元の公立学校に進む。 中学では卓球部、高校ではバトミントン部に所属する体育会系。 「建築のことはすっかり忘れていた」 が、大学受験で建築家を選ぶ。          国語が苦手で理系を選んだものの、進みたい学科のイメージが湧きませんでした。 医学部は難しいし、薬学部も理学部もピンとこない。 では工学部の建築家はどうだろうと。 消去法ですね。        国立大学も受けたのですが、日本女子大学の住居学科しか受かりませんでした。 「女子大かあ」 とちょっと思いましたが、すぐになじんでしまいます。        ある日、大学の図書室で建築の雑誌を見ていたところ、小学生のころ見た 「スカイハウス」 に再び出合います。 建築史上に残る住まいと知り、がぜん興味がわきました。 勉強に本腰を入れるようになったのは、そのころからです。        卒論ではル・コルビュジエの曲線の持つ意味について分析しました。 大学院に進んだのは、働く覚悟が出来ず何となく、です。 大学院1年生のとき、藤崎新さんの事務所でアルバイトを始めました。  翌朝までに模型を作らないといけないといったとき、夕方に声をかけて頂き仕事をするのです。        そこで知り合った建築家の八束はじめさんがある時、週末に伊東豊雄さんが設計した 「中野本町の家」 に外国人をあんないするけど一緒に来ないかと誘ってくれました。           伊東さんの建築に憧れていたので喜んでついおて行ったら、なんとそこでご本人にお会いすることが出来ました。 その後、伊東事務所でアルバイトを募集していると聞き手をあげました。        伊東さんはとてもリベラルな方で、学生でも真剣に考えていると分かれは真正面から 「僕はこう考える」 と答えてくれる。 さらに仕事ぶりに振れれる中で 「(建築の)この世界で生きていきたい」と思うようになり、「卒業したら事務所で働かせてください」 とお願いしました。 無給でもいい、喫茶店でアルバイトをしながらでも、という覚悟でした。          当時はまだ、建築家のアトリエ事務所に女性が入るのは珍しい時代。 「伊東さんのような作品をつくりたい」 という一心でした。                      ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の人間発見のコーナーに建築家 妹島和世氏のインタビュー記事が掲載されていましたから紹介します。        建築家の妹島和世さん(54)は2010年、建築界のノーベル賞といわれる 『プリツカー賞』 を、西沢立衛(にしざわりゅうえ)さん(45)と組み建築ユニット 『SANAA』 (サナア) で受賞した。 金沢21世紀美術館をはじめとする 「新しい公共建築」 が高く評価された。 現在はルーブル美術館ランス別館を手掛ける。        ルーヴル・フランスが建つランス市は、かつて炭鉱の町として栄えた街です。 そこに権威の象徴のようにそびえ立つ美術館を立てるのではなく、街に開かれた美術館、風景の中に溶け込んでいく建築にしたいと考えました。      建物は低層にして分割し、敷地に沿って流れるように配置した。 緩やかにカーブするアルミの外壁は鏡面仕上げとし、周りの緑をやわらかに映しこむ。 風景の中に消えていくイメージです。      長さ120メートルほどの常設展示室では、4000年前から19世紀にかけての美術のながれが一気に体験できます。 展示室を抜けると、現在のランスの街が見渡せる。 時間の流れの中で、いま生きている。 そんな感覚が呼びさまされる設計としました。            2010年8~11月にイタリアで開かれた 「ベネチア・ビエンナーレ国際建築展」 では、女性初、日本人初となる総合ディレクターを務めた。        我々が日本で手掛けた金沢21世紀美術館では 「公園のような建築」 を目指しました。 円形の建物に四方から入れるようにして、中では人々が回遊できる造りとしました。 今求められているのは、人と人とを結ぶ 「開かれた建築」 だと思います。 そこでベネチア・ビエンナーレでは、テーマを 「建築の中で人々があ出会う」 (ピープル・ミート・イン・ザ・アーキテクチャー) としました。      若くて創造的な建築家に参加してもらいたいと、3カ月ほど猛勉強。 世界中の建築情報を集め、リストを絞りました。 手分けして海外まで会いに出かけ、47組の建築家、アーティストを選びました。 従来の建築展は建築の模型や図面を並べるものでしたが、それではつまらない。 そこに足を運ばないと体験できない建築展にしようと、一組に一部屋ずつ渡して空間そのものをデザインしてもらいました。 その中から石だけで表現したり、0.9ミリの極細カーボンを柱として空間を見せたりと、実験的な試みが生まれました。      プリツカー賞の受賞を境に建築依頼が増えたわけではありませんが、忙しさは相変わらずです。 お客様が帰られてスタッフとの打ち合わせが始まるのは、だいたい夜8時から10時くらい、睡眠時間は1日3,4時間の日が多いですね。 でも年に25回ほど欧米出張があり飛行機の中では寝ています。 その累計は年間1カ月ほど、もったいないですね。          いまだに 「英語は苦手」 で 「人前では発音するのは得意ではない」。 ところが東日本大震災を機に、建築家として発言することを決意する。 伊東豊雄氏ら建築のにんとともに 「帰心の会」 を結成。 ボランティアで復興プラン作成や、仮設住宅での交流の場 「みんなの家」 づくりを手助けする。        いま宮城県東松島市の宮戸島に、復興プラン作りのお伝いをするために通っています。 牡蠣や海苔の養殖などを営んでいる地域で、3つの浜が大きな被害に遭いました。 一つの集落は50戸くらい。 住民の結束は固く、新しい集落をつくるために地理学や経済学の専門家などを招いて研究会を重ねています。      初めて知ったのですが、縄文時代の貝塚が残る地域。 「縄文時代は、山のもの、海のものをとるために中間地点に住んでいた。 その頃の住まいに戻してはどうか」。 住民の知恵や思いに耳を傾けています。 地域模型を作ってトラックで現地に運び、話し合いを重ねているところです。 「海岸に海苔加工場を造りたい」 と聞けば 「どんな作業をするのだろう」 「浜辺の景色と調和させるには」 と考えを巡らせています。 世界に誇れる美しい集落を造りたい、そのお手伝いが出来たらと思います。        明日は、2回目を紹介します。                   ツイートこの記事をつぶやく
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