本日で平田牧場社長 新田嘉七氏を紹介するのは4回目になります。       111111_134326      わずか2頭から出発した平田牧場の飼育頭数は年間20万頭。 この豚を生かした農業の6次産業化で、全国の先進事業例として注目を集める。          2008年7月3日に開かれた、地域の強みである農林水産資源を活用して新しい事例を紹介する 「農商工連携フォーラム」 で、私は 「農商工連携88選」 の代表団として、当時の若林正俊農相から認定証を授与されました。 リンゴの輸出で知られている青森県片山リンゴ執行役の山野豊さんとともにパネリストも務めました。      その後も、各地のシンポジウムやパネリストや講演会の講師などにも招かれる機会が増えました。 先月には鹿児島県の伊藤雄一知事が平田牧場を視察に来られました。 全国各地の地方自治体や農業関係者、国会議員や経済団体の方などが視察に訪れてくださいます。 でも、私たちは最初から6次産業化とか農商工連携という意識で取り組んできたわけではありません。      「日本一おいしく高品質な豚肉を育て、多くの消費者に食べてもらいたい」 という思いが出発点です。 そのために豚の生産から商品開発、加工製品の製造、さらに小売りと外食までの一過した生産・加工・・流通システムを作り上げてきたのです。 昨年12月には、東北経済産業局から 「東北農工商連系伝道師」 の一人に登録されました。 私たちの経験が、6次産業化を目指す活動に少しでも参考になればと思っています。              6次産業化への道を歩みエネルギー源。 それは新田さんが経営理念に込めた 『より豊かな食生活、食文化を提案する感動創造企業である」 との思いだった。          6次産業化は農業が目指すべき方向であることは確かです。 でも、それを実践していくのは決して容易ではありません。 素材を作っている人たちにとって、その素材を加工したり、小売店を作って最終加工製品を販売したりすることは、全然違うことです。      大切なのは、美味しいものをたくさん作って、多くの人たちに味わっていただくという思いをぶれることなく持ち続けることだと思います。 マーケティング・イノベーション(技術革新)をしっかりやり、お客様のニーズを的確にとらえることも大切。 当初の意志を貫き、手間をいとわない努力の積み重ねが重要だと思います。              新田さんの思いが、今年5月に発効した1冊のレシピ本に凝縮されています。          「平田牧場、おいしい豚肉料理」 と名付けた本は、平田牧場の外食店シェフが家庭で上手に豚肉を料理するコツを紹介した直伝レシピのほか、社員による 「我が家のレシピ」 なども載せています。 豚肉にかける社員の熱い思いが込められた本です。      豚は1頭を育てても、これを丸ごと使い切るのは容易ではありません。 手塩にかけて育てた豚ですから大事にすべて生かしたい。 それが可能なのは、平田牧場が6次産業化した企業だからです。      ヒレかつやロースかつなど付加価値の高い部位だけに力を入れるのではなく、他の部位もメンチカツやハンバーグなどバランスよく提供するように工夫しています。 各部位の肉を重ね合わせた 「ヒラボクかつ」 も肉の有効活用を考えた結果、生み出した商品ですが、私が期待した以上の高い人気を頂いています。 骨からコラーゲンを抽出して機能性食品として生かすこともできるし、豚は本当に無駄なく有効に生かせる素材なのです。      ブランド豚がお客様にどのように評価されているのか。 それを肌で感じ取るために、山形県内の店はもちろん、上京した際には都内の小売店や外食店に出来るだけ足を運ぶようにしています。       そこで、お客様からいろいろな声や要望を伺い、従業員の意見を聞くようにしています。 今、お客様が求めているものは何か、今後何を提供していけばいいのか。 いろいろな生きたヒントを得ることができ、改善に生かすことができるからです。        と、4回目が日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに平田牧場社長の新田嘉七氏が紹介されています。               ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに平田牧場社長 新田嘉七氏が登場して3回目を紹介していきます。              食肉学校で学んだあと、平田牧場の若手社員として新たな感覚で、付加価値を高める豚づくりに情熱を注いだ。          食肉学校を卒業後、会社に戻ってからの主な仕事は、工場や販売の実務を体験することでした。 ハムやソーセージを生産する子会社時代は、本拠である山形県酒田市と営業所のある札幌と仙台、東京を1週間ごとにぐるぐる回るという生活です。 そこで実感したのは、養豚の利益率がいかに低いかということです。 「信用販売で代金回収期間も長い。 これで養豚業の将来は大丈夫なのか」 という不安も感じました。      自分たちが生産した豚肉を卸業者に販売するだけでは限界がある。 肉の加工品を増やす一方、小売りや外食など消費者に直接販売するところまで手掛けて、付加価値を高めていくことが重要だと実感するようになったのです。 今でいう農業の6次産業化という発想でした。 それには、バックやフォッションなどのようにブランド力を高めていく戦略が必要だと思いました。 ハム、ソーセージ作りの先進地ドイツに学びに行ったのはこの頃のことです。              平田牧場と 「平牧三元豚」 のブランド強化に取り組んだ。          豚肉の事業に入って痛切に感じさせられたのは 「豚肉は牛肉より安くて当たり前」 という通念でした。 牛肉には、松坂や神戸、米沢などのブランド牛があるのに、豚肉は鹿児島県の黒豚が有名というぐらい。 ブランド豚は全国的にも非常に限られていました。 「牛より美味しい豚を」 という一念からブランド力向上に挑んだのです。      このため 「三元豚」 の商標登録を申請すると、「一般に呼ばれているから」 と受け付けてもらえませんでした。 いろいろ考えた末に 「平牧三元豚」 で申請して登録できたので、このブランドで勝負しようと決心したのです。      産直で付き合いの長い生活クラブ生協やスーパーなどを手始めに、アピールしていきました。 ブランド力を高めるためには、当然、味や品質の良さを理解してもらうことが大事。 そのために安心・安全な餌、清潔な飼育環境、生産履歴の徹底など各分野で取り組みました。 生産農場と食肉加工工場でそれぞれ国際標準機構(ISO)の品質管理規格などを取得したのも一環でした。      消費者との結びつきをより強めたいと力を入れたのが直営の小売店と外食店です。 エンドユーザーである消費者の声を直接聞くことでニーズにこたえていうのが一番大事、との思いからです。      それまでも宴会場や洋食レストランに対して営業していましたが、このような業種だとどうしてもコックさんへの依存度が大きく、自分たちの素材である豚肉の良さを十分に伝えられる店とはいえませんでした。      そこで、ブランド豚の魅力、美味しい食べ方をより広く伝えられる道はないか、ということで着目したのが国民食ともいえるとんかつの店でした。 本社の1回に第1号店を開業したのは、10年程前のことでした。      とんかつ店第1号に対するお客様の反応は十分。 手応えを感じて、東京進出を目指したのです。 東京は、産直で交流が深い生協の組合員が多く、身近に感じてきた地でもあったからです。              東京進出の最初のお店は調布市内に開業。 この時に築かれた大手デベロッパーとの絆が、東京の有名スポットへの進出につながった。          調布に開店したのは、都心より郊外の方が出店しやすいと考えたからです。 その店を三井不動産の人が良く利用してくれたのです。 それが縁になって、三井不動産などがCOREDO(コレド)日本橋(中央区日本橋)を開業する時、平田牧場もテナント出店することになりました。 その後、東京ミッドタウン(港区赤坂)やCOREDO室町(中央区日本橋室町)などに相次いで出店することが出来ました。      東京の人気スポットに出店することで、「平牧三元豚」 のブランド力をさらに高めることができたと思います。 つくづく人の縁の大切さを感じました。        と紹介されています。 明日は4回目を紹介する予定です。                ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに平田牧場社長 新田嘉七氏の紹介が今日で2回目になります。            日本有数の米どころ荘内地方で代々続く農家の長男として生まれました。 小学校に入る時、父嘉一さんが養豚業を本格的に手掛け始めました。 幼いころから豚は身近な存在だった。          私の家はもともと米作り農家で16代目の父が畜産業に転じました。 ある時父が大学の先生に 「これからの農業はどうしたらよいとお考えですか」 と尋ねたら、「人々の生活が豊かになってくれれば、食料の中心はたんぱく質になってくる」 と言われたのが、きっかけだったのです。 わずか2頭の豚による日本一の豚の肉づくりを目指す養豚事業の始まりでした。      私がちょうど小学校に入学したとき、当時の平田 (山形県酒田市) で父が仲間の青年養豚家と共同の養豚場をつくり、豚肉の商品開発や販路開拓に乗り出しました。 それが 「平田牧場」 のスタートです。 その後、肉質の良い豚づくりに取り組みながら、少しずつ飼育頭数も増えていきました。 寝食を共にして豚を育てる父の背中を見て育ちました。 小さい頃は、牛や豚、鶏、ヤギなどに囲まれた生活。 牛の餌やりをするなど、まさに家畜とともに過ごす生活でした。 家業を手伝う母の車で配達にもついていったことを覚えています。      豚が非常に身近な存在とはいっても、小学生の頃は大事な商品である豚が食卓に乗ることはありませんでした。 我が家で豚を食べるようになったのは、中学生になってからでした。      高校時代は、自動車の設計技師や公認会計士などに漠然と憧れていました。 でも成城大学経済学部に入学するときは 「大学を出たら家業を継ぐ」 と考えるようになっていました。            学生時代、ゴルフのサークル活動をしたのも、会社に入ってからの将来を考えてのことだった。          大学のサークル活動にゴルフを選んだのは、父から 「ゴルフも仕事のうち、取引先との付き合いには必要だ」 と言われたからです。 大学の同好会でしたが、打ち込んで練習したのでハンディはシングルになりました。      大学に通う傍から、会社の仕事も手伝いました。 主には、上京した父の運転手として得意先回りについていくことでした。 父を通して仕事を実践的に学び、得意先と顔をつなぐことができたと思います。 経営者の先輩で、今も地域の経済、社会、文化活動に力を入れる父とはいろいろ話す機会も多く、学ぶ点も少なくありません。       卒業する時、父から 「ハム・ソーセージ作りの先進地であるドイツで、数年間勉強してきたらどうか」 と言われました。 でも当時、平田牧場は生活クラブ生協との産直が動き始め、豚肉の加工場が稼働するなど成長途上にありました。      「少しでも早く戦力として役立ちたい」 との思いから卒業と同時に平田牧場に入社。 入社後すぐに千葉県にある食肉学校に学びに行きました。            千葉県柏市にあった食肉学校に入学して、半年間、肉に関する様々な分野の理論と実践をみっちりと学んだ。          会社から派遣の形で入学した食肉学校は、大手畜産メーカーが設立した学校で、全寮制。 同級生には肉関係の専門店や牧場の後継者もいれば、スーパーのバイヤーもいる。 出身も年齢も多彩なメンバーが集団生活をしながら学ぶ日々でした。      相部屋の二段ベッドで寝起きし、朝5時半に起きて体操やランニング。 朝食後は牛や豚、鶏、マトンと4種の肉の勉強や、肉の処理方法の実技を学ぶ日々でした。 肉に関する勉強だけでなく、簿記から衛生学まで関連する幅広い分野の知識もしっかり身につけることも出来ました。 販売士の資格を取得したのもこの時です。      休みは日曜日の週1日だけ。 睡眠時間は平均して5時間ほどという厳しくも楽しい寮生活でしたが、大学時代には決して体験することのできない、様々な社会勉強も出来ました。 私のこれまでの人生で、あれほど必死に学んだ時はなかったと思います。 当時、苦楽を共にした学友とは、今でも折に触れ情報交換をしています。        と、2回目は紹介されています。        父の嘉一氏はカンブリヤ宮殿に出演したときその時のことはこちらから。                  ツイートこの記事をつぶやく
       今週の日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーには、平田牧場社長 平田嘉七氏が紹介されています。 それを、紹介します。                            111108_193809          米の新たな需要先と期待される飼料用米。 先端例として注目を集めるのが山形県酒田市の平田牧場だ。 社長の新田嘉七さん (54) は 「米育ち平牧三元豚 (ひらぼくさんげんとん) 」 や 「金華豚 (きんかとん)」 などのブランド豚の養豚から小売り、外食まで手掛ける。 日本農業の6次産業化の旗手としても活躍する。          「世界に誇れる日本古来の水田文化を守り、食料自給率を高めたい」。 米どころ荘内地方でも減反対象の田んぼが広がっています。 この減反田で飼料用米を作ろうと地域の仲間を呼びかけたのは、こうした思いからでした。      外国から輸入した飼料は、だれがどのように作ったかのか、よくわかりません。 一方で、飼料用米は生産者の顔が見えることで安心感が強い。 私たちの飼料用米作りが、「食料自給率向上モデル」 と評価されるようになってきたことに、確かな手ごたえを感じています。              「国産の米を豚の餌に」 と新田さんの心を動かしたのは、産地生産者との交流会で平田牧場を訪れた生活クラブ生協の組合員の一言だった。          「餌のトウモロコシや大豆はどこから輸入されているのですか」 「減反した田んぼを使って飼料用米を作れないのですか」。 今から十数年前の夏のこと。 牧場を訪れた首都圏の生協組合員の方から、こう質問されたのです。      世界の有名ブランド豚であるスペインのイベリコ豚はドングリ、イタリアのパルマ豚はホエーを食べている。 ともに地産地消です。 日本では輸入飼料に頼っているが、考えてみると米があるではないかと。 荘内地方の猟師の間でも 「落ち穂を食べた鴨は美味しい」 と言われています。      ただ私はそれまで米を食べさせて豚の話を聞いたことがありません。 不安はありました。 でも試しに米を餌にした豚を食べると、脂質がよく甘味があって美味しい。 「この豚なら十分いける」 と自信を深めました。 「日本の米を食べて育った豚は日本人の舌に合う」 という声もありました。      早速、飼料用米作りに挑みましたが、決して順風満帆とはいきませんでした。 米つくりをするいとこに 「30アールだけやってくれないか」 と頼んで動き出すことが出来ました。 1997年のことです。 減反に伴う転用助成金が活用できたので、一時は協力農家が四百数十戸まで増えました。 しかし、転用助成金が減るにつれ生産農家は減少の一途をたどったのです。      「やはり飼料用米の栽培は難しいか。 もう潮時かな」 とあきらめかけたときです。 酒田市に隣接した遊佐町が食料自給率向上特区の認定を受け、耕作放棄地を有効活用できるようになったのです。      2004年、遊佐町やJA荘内みどり、生活クラブ生協など協力して 「飼料用米プロジェクト」 をスタートさせることが出来ました。 米農家が栽培した飼料用米を平田牧場が買い上げ、トウモロコシなど豚の餌に混ぜるという方式です。      当初7ヘクタールほどだった栽培面積は荘内地方だけでなく山形県各地、北海道、岩手県などに広がり、今年は約1100ヘクタールになりました。 多収米のベコアオバとフクヒビキなどの収穫量は約6400トンになりました。 牧場で飼育するために育ち平牧三元豚は約10%、金華豚は約15%の飼料用米を混ぜた飼料を食べるようになっています。      飼料用米を家畜の餌にするというには、日本の穀物自給率を高めることにつながるのです。 必死にやれば、食料自給率問題は大きく変わると感じています。              飼料用米作りの輪は地域で着実に広がっています。          環境に優しい飼料用米のプロジェクトを契機に、地域循環型農畜産業が育ち始めました。       飼料用米を食べた豚の排せつ物を完熟させて堆肥にし、米農家や果樹作りをする営農センターなどで利用してもらう。 また酒蔵の酒かすを当社の豚の味噌漬けの原料にし、当社のとんかつを揚げた廃油を月山パイロットファーム(山形県鶴岡市)のトラクターの燃料にする、という具合です。 このような資源循環が地域内の異業種の間で円滑に進み始めいています。        と第1回目が紹介されています。            平牧三元豚が食べたくなった!!  明日は、三元豚のとんかつか!!??             ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の 「人間発見」 にコピーライター 糸井重里氏が紹介されていて5回目です。 今回で最終回になります。          今年3月。 地震と原発事故を受け、読者と社員に何を語るか。 全力で言葉を探した。          13年間、インターネットのホームページ 「ほぼ日刊イトイ新聞」 に日々、文章を書いてきました。 毎日の訪問者は16万人、ページピュー(惣閲覧件数)なら100万を超えます。 逃げようがない。 ウソもつけません。 僕は決して非常時向きの人間ではないし、そのことを誇りにさえ思ってきました。 そんな僕が何を書けるか。      ネットなどには扇情的な発言が飛び交っています。 「ほぼ日」 に来る人は、専門家ではなく、僕と言う普通の人の言葉を確かめたいはず。 自分に 「落ち着け」 と言い聞かせ、ようやく 「じぶんのリーダーは、じぶん」 という言葉を絞り出したんです。      誰かが、政府は、テレビがこう言った。 そんな他人の言葉で動くとミスの連続になる。 人々が憲兵のようになり、倫理を上げた他人を責め始めたのにも恐ろしさを感じました。 自分の判断を大事にし、リスクを背負う。 あらゆる判断は尊い。 逃げる人も残る人も、互いに非難するのはやめよう。 そう呼びかけたんです。 僕自身は、専門家のうち 「異なった立場の人を攻撃しない」 の言葉を尊重することに決めました。      会社では社員を集め 「不安を基に動かないように」 と話しました。 心配や不安を抱えて動くと平常時でも危ない。 逃げまどえば足をすくわれる。 判断を間違えても、浮足立ってドブに落ちるよりはいい。 借金ゼロから貯金で2年は持つ。 その間稼ぐから3年は大丈夫。 被災地の分までこれまでの130%働こう。 1年後に 「焼け太りした」 と言われるくらい頑張ろう、と。              自分たちの強みであるアイデアで被災地を支えよう。 具体的な動きが始まった。          寄付金を送り終え、これから先はお金以外のことだな、と思いました。 まず 「ほぼ日手帳」 をなくした方に新品を無償でお届けしました。 作る人と使う人は一つのチームだと、改めて実感します。      11月1日には宮城県気仙沼市に事務所を開きます。 社員も常駐します。 普通の会社では許されないでしょうけど、事業計画は一切なし。 計画を立てると、計画の奴隷になってしまい 「何がしたかったのか」 という動機が消えてしまう。 頼まれ仕事はしません。 自分たちが面白いと思うことを全国に発信します。 無から有をどうつくるか。 ゲリラ的な社会の生き方を見せるつもりです。 2年後には 「何か」 になっていることでしょう。      震災は凄い経営者も浮かび上がらせました。 あるしゅうゆメーカーでは、設備が津波で全壊したのに、社員を集め先ず給料を払ったそうです。 この話を聞き、感動しました。 一方で、たっぷり金のある会社や経営者がコストをカットし、人を解雇する。 これでは価値を増やせません。 モノを作るのは人間だけ。 人へのメンテナンスこそが大切なのに。 社長に 「会社が存亡の危機だ」 と言われても、社員はどうしていいか分からない。 「厳しいけど大丈夫」 と語りのがリーダーではないでしょうか。              近年の 「節約」 志向に、やや異義がある。          消費は恋愛に似ています。 どちらも矛盾があり、喜びがあり、生きることそのもの。 不要だから削っていくと、魂も小さくなる。       消費の喜びは、ものと心の掛算に有ります。 バブルのころは、本当に欲しいものじゃないから、代わりに量をいっぱい買っていたんでしょう。 大量生産、大量販売に豊かさはない。 差異が出来ないもの、人の思い、丁寧な仕事、長い時間や歴史、ものに込めた世界観。 それが価値なんです。 僕らが提供していくのはそういうものです。      その良さを伝えるためにこそ、自分の言葉を使っています。 僕はもう広告のコピーの仕事はしていましけど、言葉やアイデアで価値を増やすという意味では、生涯コピーライターのつもりです。        「資本主義の犬」 「1行100万円 (の楽な仕事)」など、いろいろ言われてきました。 でも悪口は誰の価値も増やさない。 「ペンは剣より強し、だから武器よさらば」。 攻撃のための言葉ではなく皆の価値を増やす言葉を、現場から紡いで行くつもりです。          如何でした?  なるほどコピーライターらしい言葉を大切にして仕事をしているんだなって感じます。  これからも活躍して欲しいですね!        あわせて1回目を読む。  2回目を読む。  3回目を読む。  4回目を読む。                    ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーの糸井重里氏の紹介は4回目になります。  “ねるほどね” って感じますよ!             1997年インターネットと出合う。 その年の誕生日、49歳で初めてパソコンを購入し翌年 『ほぼ日刊イトイ新聞』、通称 『ほぼ日』 を立ち上げる。          これだと、思いました。 ものを考える人やつくる人が、メディアやスポンサー抜きで消費者と直接つながれる。 普通の人たちが地位や立場と関係なく、趣味などの情報をタダで分かち合っている。 対等で自由。 ここに新しい 『  』 をつくろう、と決心しました。      広告屋だった自分とはお別れです。 しばらくは厳しいぞ、と覚悟しました。 もちろん一人ではできません。 都心の事務所をたたみ、やや不便な場所の一軒家を借りました。 風呂もあり寝泊まりできる職住一体体制。 学園祭のようでわくわくしたことを思い出します。      文字中心だから分かりやすく 「新聞」 と名付け、有名、無名を問わず面白い人に原稿を書いてもらうことにしました。 ただし原稿料を払う余裕は全くありません。 「タダだけど自由にかけますよ」 と口説いて回ったものです。      有る専門家には 「古い」 「今さら」、別の専門家には 「早すぎる」 と言われました。 軌道に乗ったと思ったのは読者が3万人を超えたとき。 これで何でもできるぞ、と思いました。 満員の野球場で僕らがどんな試合をするか、3万人が観客席から見ている。 いい試合をすればきっと応援してくれるはず。 苦労ではなく、楽しみで共感して欲しい。 そう考えました。              連載をまとめた本や生活雑貨の制作・販売を始め、収益源に。 中でも 「ほぼ日手帳」 は年間35万部を売っるヒット商品に育つ。          頼まれ仕事ではないものづくりの面白さを知りました。 企業の広告は100万人単位で考えていた。 お金もかけ、仕掛けも大きい。 でも霧のような100万人より、わざわざ 「ほぼ日」 を読みに来てくれる3万人が僕にとってうれしいんだっと分かりました。 言葉が届き、うれしそうに笑っている様子が目に浮かぶんです。 自分の仕事を見ていてくれる人がいる。 そのことの意味が初めて、泣きたいくらいに分かりました。      商品企画の出発点はすべて、自分たちが欲しいもの。 読者の声を聞いて改良を重ね、製作過程はすべてネットの載せます。 第1号のTシャツは原価も公開しました。 僕たちと使ってくれる人が一つのチームだと思っています。 もっとお客さんと親しくなれるにはどうすればいいか、と常に考えます。      対等な関係でありたいから 「お客様は神様」 とは考えません。 取引先も同じ。 揉み手で平身低頭したり、土下座したりたたき売りしたりはしないと社内でも言っています。 揉み手や土下座は言葉ではない。 言葉で人と人としての関係を築いていきたいんです。      手帳を作った時、銀座の老舗の文具店に置いてくれるように頼みに行ったら 「実績のないメーカーはお断り」 と言われ、泣いたことも。 別の生活雑貨チェーン店が 「ぜひ」 と言ってくれ、いまはそのチェーンで売れ筋トップです。          事務所は社員40人、売上高20億円を超す会社になった。          自分が 「経営者」 になるとは思わず生きてきました。 だから役職も部署もなく席替えはくじ引き。 発案者が周りを巻き込んで商品化するまで責任を持ちます。 プレゼンテーションが上手である必要はありません。 直接話し、一緒に仕事をすれば分かりますから。 資料作りが仕事だと思われてはたまらない。 逆に、熱中し過ぎる人は上手に邪魔するのも僕の役目です。       頑張る村、地域共同体のイメージですね。 いろいろな人がいて、軽口をたたきつつ認め合い、大衆的な倫理を守って暮らす江戸の長屋が理想なんです。 会議では他人の提案への悪口は禁止。 対案が無いならせめてヨーモアのある発言を、と言っています。 皆で自由にアイデアを出し合い、楽しさや豊かさという価値を増やしていくのが 「ほぼ日」 のやり方です。 会社が 「管理」 を中心に動くようになったら寿命ですね。 ものを生む力や熱が無くなった証拠ですから。      いままでの資本主義や会社経営とはちょっと違うあり方が気になるのでしょうか。 最近のビジネス系の取材が増えています。 昔 「話の特集」 など、小さくても影響力のある雑誌がいくつもありました。 そんな会社を目指すのも良いと思い始めました。        明日は、5回目をご紹介します。               ツイートこの記事をつぶやく
       本来なら昨日紹介しないといけなかった日経夕刊の人間発見に紹介されていた糸井重里氏をアップ予定でしたが・・・ ((’ェ’o)┓ペコ  アップします。            ミノルタ 『今の君はピカピカに光って』、新潮文庫 『想像力と数百円』、日産自動車 『くう ねる あそぶ』。 1980年代、糸井重里の作品は世を席巻する。 中でも注目されたのは 『不思議、大好き。』  『おいしい生活』 などセゾングループの仕事。 コピータイターという職業の人気も急上昇した。               111028_114535  西武百貨店の会議には代表の堤清二さんが出席し、自分の言葉で方針や判断を語っていました。 経営者となった今、手本にしています。 社会学の用語が飛び交い、学校のようでもありました。      コピーライターは消費者代表。 企業側の人間ではない。 どの仕事もそういうつもりで臨みました。 広告を作る時多くの企業は 「強い言葉」 を求める。 僕は自分のフィルターを通して 「強い言葉は嫌」 だと押し返す。 消費者の楽しさ、面白しろさを最大にしたいんです。 コピーライターとはそういう役回りだと思っています。      NHK 「YOU」 の司会や作詞、小説、商品開発など、広告以外の仕事でも 「職業・コピーライター」 と必ず入れました。 消費者の楽しみをお手伝いするのがコピーライター。 器と可能性は大きい。 ここまでできるんだ、というキャンペーンのつもりでした。 消費者が喜び広告を先に作り、それに合わせて商品を開発するという試みに挑んだこともあります。              バブル景気の真っただ中でる88年、西武百貨店向けに書いたのが 『ほしいものが、ほしいわ。』 というコピーだった。          「もう買いたいものはない」 と思っている自分に気付いたんです。 「欲しいものはもうない。 しかしいいものがあれば買うよ」。 そんな二つの気持ちを一つの言葉に込め、消費者の代表として企業に宣言したんです。 宣言といっても集団ではなく、個人のつぶやき。 それを最後に 『  』 で表しました。      広告としては観念的で、社会に問いかけるのは早すぎっると分かっていました。 でもそういう時代が必ず来る。 「西武が突破しましょう」 と堤さんを説得しました。 世の中を挑発したかった。 やっちゃたなあという感じでしょうか。 生意気になっていたんですね。              90年代、バブル崩壊。 位置のコンペ (提案競争) で負け始めた。          生きづらくなったという印象が年々強まりました。 広告の存在が大きくなり、企業に説明責任が生まれ、採用した案が 「一番いい」 と説明できなけばならなかったためです。 売り上げの貢献、評判、アンケート。 広告効果の 「見える化」 です。 責任者は 「言い訳できるもの」 を選ぶ。 広告が普通の仕事になっていったんです。       コンペでは広告会社など何十人ものチームで乗り込み、大部屋で説明するよになりました。 少人数で友達言葉を使い、自由にアイデアを出し合っていたころとは様変わりです。 僕は 「先生」 扱い。 人対人として横並びでやりたい僕には、実にやりにくい。 よそのチームが、「お前アメリカ人か」 という感じで立て看板に水のプレゼンテーションをしているのを見て、笑いたくなりました。 これは、おれは駄目だわ、と。      「勝つ」 ためだけの言葉が飛び交う戦場になったんです。 説明後は下駄を預け、知らないところで採点される。 話し合って一緒に良くしましょう、では通じない。      負けが5割を超えた時、これはまずいと思いました。 ところが勝った案が後日、実際に広告になったものを見ると 『これか?』 という感じ。 これは負けたのか、と悔しいくなりました。 僕はもう依頼してくれる広告会社を勝たせられない。 しかし提案の 「弱点」 を埋めるなど、自分の仕事ではなくなっていく。 「糸井の案を落とした」 ことを自慢する人まで出てきた。 勝ったから何だ。 そう思え、情熱が失われていくのが分かりました。      もう40代半ば。 勝つためだけに作りたくないもの、おれでなくても作れるものを作りつづけか。 何社かの顧問に就任し 「先生」 として生きるか。 どちらの道に進んでも、自分が駄目になる。       「住む場所」 を変えよう。 そう思い広告の仕事を減らしました。 「イトイはもう終わったな」。 そんな声を遠くに聞きながら、知り合いの大学生たちと釣りに熱中しました。        と3回目の紹介でした。                  ツイートこの記事をつぶやく
       昨日の日経夕刊にも 「人間発見」 のコーナーに糸井重里氏が紹介されていましたが、約束があって早く会社を出て “あぁ・・・ 松茸美味しいな~~  そして今日も酒が美味い” とお客様との会食をしていたものですからアップ出来ませんでした┏○ペコ              大学を中退、フリーター生活が始まった。           ふるさとを失ったような気持でした。 安い映画館、パチンコ、読書とデカダン (怠情) な日々。 遅い思春期ともいいますが。 真面目くさったものから離れ、サブカルチャーにどっぷりとつかりました。 横尾忠則、寺山修司、唐十郎・・・・・・。 この人たちは生き生きとしているな、と。 アメリカ発のヒッピー文化の持つ、単なる反体制ではおさまらない魅力にも惹かれました。       左官やトビなど、アルバイトはいろいろ経験しています。 帰郷の途中、社内で知らない人に 「お前仕事を探しているのか?」 と話しかけられたことも。 よほど困って見えたんでしょう。 その人の紹介で工事現場にも行きました。       広告の文案を造るコピーライターという職業があると友人から聞き、専門学校に1年通ったのが、この道に入ったきっかけです。 自分に向く仕事だとすぐに感じました。 過去の例を見て、俺の方が絶対うまいぞ、と思ったり、こんなことは一生に何度もありません。              学校や就職先で、自分を認めてくれる先達と出会う。          課題の商品をじっと見る。 すっと抜ける瞬間があり、コピーができる。 書く時より見るとき、手より目玉が大事なんです。 皆が見ているものは、既に言葉になっている。 まだ誰も見ていない物を商品の内側から掘り出すには、形や性能だけを見ていてはダメ。 知識を総動員し、脳と目と耳をフルに使う。 楽しいですよ。      相性がいい先生が2人いて、作品を褒めてくれました。 良い指導者がいるのは重要です。      学校を終え、原宿のセントラルアパートにあったファッションの広告会社に4年半勤めました。 自分にも居場所が出来たのがうれしく、仕事も面白かったけど、給料は安かった。 総勢7人くらいの社員がだんだん減り、最後は社長と2人。 そこがつぶれた後は、フリー (個人) でやってきました。      社長から 「おまえは競走馬のハイセイコーだ」 と言われたことを覚えています。 なぜなら、どちらも地方出身だから、って。 思わず笑いました。 同じ年の友人たちは大学を出て、ちゃんとした会社で良い仕事をしている。 そんな自分にエールを送ってくれたんだと理解しました。      あの時の社長の気持ちがよく分かる気がします。 地方出身ということもありますが、ハイセイコーのように優勝させたい、こいつならできるのでは、と思ってくれたんだと。 今になり、この言葉を嬉しく思います。              20代後半には頭角を現し、広告以外の分野にも活動を広げていく。 その一つは歌手・矢沢永吉から聞き書きし、編集した 『成り上がり』 (1978年)。 バンド 「キャロル」 を解散、ソロデビューした直後だった。          このころ最も影響を受けたのがほぼ同年代の永ちゃんえした。 コンサートの楽屋、バーなど、あらゆる場所で話を聞きました。 それまでの僕が触れてきたのは本、受験勉強、大学闘争、ヒッピーやサブカルチャーと、すべてインテリの言葉なんです。      でも、良く考えれば、永ちゃんを支持する人口はインテリより大きい。 僕自身キャロルにぶっとばされました。 僕ら何なんだろう、と。 そもそも当時の大学進学率は2割台しかない。 それなのに大学生は、若者を代表するように 「われわれは」 と語っていたんです。       永ちゃんの言葉は 『私』 の言葉なんです。 「みんな」 がこう思うからお前もこう思え、だから何でも言える。 そう感じました。 言葉が正直なんです。 今も彼は同じ。 芸能人でもなかなかいません。      吉本隆明さんが 「大衆を尊敬する」 と言いますよね。 大事なのは多くの人はどう感じ、どう生きているか。 大衆にさらけ出してテストを受けない思想はひ弱です。 大衆は自分を語り、受け入れられた永ちゃんの言葉は違いました。      そのころまで、コピーライターの仕事は、自分を出さない昔のアナウンサーのようなものでした。 でも僕は、商品と自分の関係を考え、『私』 というフィルターを通さない言葉はかけないと感じ、実際にそうしてきました。 永ちゃんの影響でしょうね。         と、2回目は紹介されています。  明日、3回目をご紹介します。             ツイートこの記事をつぶやく
       日経新聞夕刊の 「人間発見」 のコーナーにコピーライターの糸井重里氏が紹介されていました。                          111024_173225          広告の文案 (コピー) に始まり詩、小説、絵本、テレビと、幅広く言葉を操る糸井重里さん(62)。 インターネットの 「ほぼ日刊イトイ新聞」 では13年にわたり毎日エッセーを書きつづってきた。 言葉を生業にとする原点は小学校時代のある夜にあった。          「あの子は言葉に棘がる」。 父、祖母、新しい母の声が聞こえてきます。 両親は小さいころに離婚し、祖母に育てれたようなもの。 うちでは普通ではない。 どこかそう感じていました。       父が再婚したのは小学生の時。 相手の女性は優しい人でした。 ある日冗談で 「腹が減ったよう」 と身もだえて見せたんです。 普通なら 「うるさいわね」 となる。 しかし母は僕を見て泣いたんです。 あのころ、継母が先妻の子にご飯をあげない、といった話を聞くことがまだありました。 ユーモアのつもりが全然違う意味で受け取られてしまった。 逆側からの視線が計算できなかった僕のせいです。      夜、大人たちの会話を聞き、大変なことをしたとショックを受けました。 言葉は両義性を持つ危険物だと気付かされたんです。 同じ言葉が優しさや豊かさを伝えることもあれば、人を傷つけ不幸にもする。 自分の持つ武器に気付いた瞬間でもあります。 今言葉が飯の種になっているのは、この時の傷がもとともいえます。 子供は不自由だ。 早く大人になりたいな。 日々そう感じていました。             高校卒業まで前橋市で過し、文学や漫画に親しんだ。          雑誌や漫画に登場する 『東京』 にひかれ、大人になったら東京で仕事をしようと決めていました。 街の風景や若者の姿が前橋とまったく違ったからです。 上京すると、雑誌で見た光景や人が全部ある。 素直に感激しました。      後に沢田研二さんが歌った 「TOKIO(トキオ)」 を作詞したとき、東京をスーパーシティーだと描きました。 過密や公害など、東京を悪く言うのが普通だったところです。 へそ曲がりだったけど、地方で育ったおれには、東京はすごいと思っている。 パリやニューヨークと並ぶ都市だと宣言してやれ。 そう思いました。 結果として、皆がうすうす感じ始めていたことを先取りした形になりました。              1967年に上京し法政大学に入学、3畳のアパートに住む。 漫画を描くつもりが学生運動に身を転じることに。          上級生が教室に演説に来たんです。 反論したら 「ゆっくり話そう」 と自治会室に誘われ、そのまま活動に参加することに。 1年生ですよね。 機動隊と衝突するときは最前列。 一番下っ端の 「捕まり要員」 です。      全共闘は脅迫的なアジテーションが好きでした。 明日革命は来るとか戦争になるとか。 戦争中の学徒動員と同じです。 そんな言葉で学生をデモに誘うのも僕らの役割でした。 教室に乗り込み、授業を中断させ、女子学生を口説く。 その場では 「本当? じゃあ行こうかしら」 と言うのに、実際は来ない。 言葉が届かないんです。      一方で冗談は通らない。 サイケ調の文字で立て看板を描いたら怒られました。 当時は長髪だったのですが、集会で挨拶しようとすると先輩が 「糸井君、髪を切ったほうがいいよ」。 涙が出ました。 論争の勝敗が年齢で決まるのにも 『あれ?』 と感じました。      出会った人次第で偶然党派が決まり、その党派を守るために殴り合い殺し合う。 相手の 「正しさ」 を否定するためにはどんな手も使う。 1年半で嫌になり、運動から離れ、大学も辞めました。 社会からドロップアウトしたのです。      大きな声は人の一生を変えてしまう。 命を持ち出し、恐怖や脅しで人を動かそうとする人は相変わらず多い。 僕は20歳の頃感じた距離感をずっと持ったまま40年やってきたんだな、と最近気づきました。 お祭りや楽しさで人を寄せ付けるのがいい。 価値を増やさない行為は嫌なんです。      食べると太る食べ物があるとします。 やめさせるのに 『太るぞ』 と脅しますか。 でも美味しいんですよ。 僕なら 『脂が少なくて、もっとおいしいもの』 を薦めたい。 価値を増やすとはそういうことです。 原発を巡る震災後の言葉を見ていると、特にそう感じます。      と、第1回目が紹介されています。 明日は2回目をご紹介します。                      ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーにスタートトゥディ社長 前沢友作氏が紹介され先週が最終回でしたが、香港からの友人が訪ねてきたものですから記事の紹介よりの香港の友人を優先してしまったせいでご紹介できなかったのですが本日最終回をご紹介します。              東証マザーズへの上場審査過程では納得いかない部分もあり、戸惑った。         創業者は会社は自分の分身でもあり “俺んち” という意識があります。 ネット通販の会員数がが急増して、もっといろいろな人に会社を見守ってほしいと思って上場に踏み切ったことは間違いなかったです。 ただ、1つだけ心残りがありました。      上場を手伝ってくれた証券会社から 「家族が会社にいるのはやめてほしい」 と言われたことです。 「家族に有利な働きかけがあると疑われる余地がある」 のが理由でした。 家族は会社の立ち上げ時からいろいろ手伝ってくれたので 「そんなことはない。 これからもあり得ない」 と抵抗しましたが、無駄でした。 会社にいた弟は辞めてもらうことにしました。 家族を排除されたことは今での残念に思っています。              上場で地名でも上がり業績も順調だったが、社内の緩みに気付きショック療法に出た。          私を入れて4人で始めた事業でしたが2007年の上場の頃には約200人の所帯まで大きくなっていました。 創業の頃には組織図なんか必要ないですが、10にんになるとリーダーをつくり、30人になると決裁権限も与え、部署名や組織作りに取り組んできました。 でも、しっくりいっていなかった。      社員は私の顔色を窺って仕事をしているのですね。 当事者意識が希薄なっていることに気付き、思い切った行動をとったのです。 毎年12月、次の都市の快泳方針などを話し合う会社にとって非常に大切なイベント、社員総会にわざと欠席しました。 上場して丁度1年後のことです。 それまでにも社内報を通じて 「牧場で飼いならされている羊と変わらない。 もっと危機意識を持ってほしい」 と訴えていましたが、なかなか分かってもらえなかったからです。      欠席を決めたのは総会の前日の夜です。 当然、誰も知らずに社員総会を開くホテルに集まってきました。 みんな 『えっ』 という感じだったでしょうね。 でも、次第に輪になって話し合いが始まったそうです。 なんのためにこの会社には行ってきたのか、仕事を考えながら考えていることや、お客さんに喜ばれる仕事をどのように組み立てて行けばいのか。 3時間ほど議論をしたとのことです。 ようやく当事者意識が芽生えてきて、「行かなくて良かった」 と思いました。      そこで翌年、「やるときはやろうよ」 と社員に語り、1日の売上高1億円を目標に掲げました。 つまり1年で365億円を目指したわけです。 社員からは 「絶対無理」 と言われましたが、みんなの頑張りで結果370億円を超えました。 社員はもともとファッションが好きな人に集まりだから、感受性が高く、私の思いが広がりやすかったかもしれません。              会社は2ケタの伸びで急成長しているが、決して数字にこだわっていわけではない。           本当はお金のない世界に憧れています。 お金の存在しない世界を考えてみてくださいよ。 自分のやったことに対する最大の報酬は人の笑顔だったり、人の幸せだったり、喜びだと考えます。      今は、それがお金に換算されているだけです。 本来、人が働く目的は人のため、世の中のため、みんなの役に立つためのはずです。 そう思える人はすごく強い人でどこでも活躍できる人だと思っています。 会社ではギブ・アンド・テークのバランスを大切にしようと言っています。            多くの若い人に不満を持っている。 もっと元気にと。          リクルートスーツののようにみんな同じような恰好をしているのは残念ですね。 あの姿を見ると生き方に妥協しているようで。 なぜ、型にはまった人生をを選ぶのでしょうか。 パワーが無いし、夢もない。 もっと笑顔のあるカッコいい生き方を切り開き、世の中を変えていけばいいのに。         人の役に立つことは自分への投資であり、必ず返ってきます。 そこを信じて、大事にしてほしいです。         と、紹介されていました。         合わせて 1回目を読む。    2回目を読む。    3回目を読む。   方はこちらから。                  ツイートこの記事をつぶやく
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