エチカの鏡に銀座の名物ママ石川香が紹介されていました。    石川香は、銀座でブスママと呼ばれ彼女は、「ブスママなんて私には褒め言葉 ブスだからこそ銀座で成功したんです」と。 彼女は、美女の中でいかに頂点を極めたか? そこには、ありのままで生きる生き方が有ったようです。 銀座の幾多のお店が有る中で一際人気があるお店それが彼女の経営している 「GOE」 店内は満席。 そのお店の中を縦横無尽に駆け巡る彼女。   お客は、「ブスだから気を使わない。それがお客にとって最高でしょう」 「かしこまることが無くて楽しい良いお店ですよ」 と言い。 ホステスも 「とにかくパワフル 見ている人を元気にさせる」 「香ママが来るとお店の雰囲気がパッと明るくなってお店が明るくなるんです」 「ママと働いて本当に幸せです」 とお客からもホステスからも信頼されている。 「GOE」以外にも二つのお店「MON」と「UEN」を経営していて同じように繁盛している。 客に「ホントにブスだね」の言葉にもあっけらかんと 「そうでしょう。 ブスに磨きがかかったでしょう」 と大笑い。    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   しかし、彼女は子供の頃から容姿で苦しむ毎日を送っていた。 1967年 神奈川県川崎市に生まれ。 小学校では、男の子達から 「おーい ブス ブス女」 とか 「ブス ブス」 と言われ、父親に悩みを打ち明けるも父親から 「将来は整形しなきゃ駄目だな」 と言われもうお終いと思ったと当時を語る。 そんな彼女にも密かな夢があって、それは女優になること。そのきっかけは、小学校での演劇発表会で主役を務め人々を楽しませることに興奮と成功を忘れることが出来なかった。 女優になりたいあの拍手を浴びたいと劇団の子役に応募し、高校を卒業後演劇学校に入学。オーディションにも全く相手にされず、採用されるのは容姿端麗の女性ばかりで落ち続けること1,000回以上 (1,000回以上も挑戦することに拍手を送りたい気持です。) 何も結果を出せず10年が過ぎていた。  そんなある日、劇団仲間から銀座の高級クラブでのバイトしたら自給2,500円貰えるからやらないかとの誘いに銀座のクラブへ行くが友人は即採用。 面接した人に 「銀座がどういう所か知っているか?」 「君は銀座は無理」 「鏡見たことある」等々。散々の結果で彼女は 「お金要らないから使ってください。一生のお願いです」となんとか雇ってもらう。  初出勤、2時間メイクに掛け着たことのないドレスを着て“私も銀座のホステスなんだ”と自覚して接客に臨むも “ええ、何でこんなブスが銀座にいるんだよ” “ブスは、話しかけるな! 酒が不味くなる” と彼女自身店にいることを負い目に感じた。 彼女は、当時を振り返り 「慣れていたはずなんですけど、面と向かって “気持悪くなるから俺の顔見るな” 言われどこ見て良いんだか? トイレに入って “私は、ここにいちゃいけない人間なんだ” と泣いていました」と。 しかし、同時にこんなことが湧き上がり自分が出来ることは、ブスを飲み込んで自分はブスだ!ブスでもこんなことが出来るんだということをお客さんに見せよう。自分は美人ではない。自分の特徴を活かすべき? ここから彼女の逆転の人生が始まった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川が、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
カンブリア宮殿にサイゼリヤ会長 正垣泰彦(しょうがきやすひこ)氏が出演していましたから紹介します。 番組は、ゲストを迎える為に村上龍は初めてサイゼリヤに行って“びっくりした”という印象を持ち“あまりにも美味いから週に1回行こうかと思った。エスプレッソマシーンのイタリア製でしょ、世界中で絶対勝つよ” と。 外食産業受難の時代に年商850億円。 年間1億3千万人のお客がやってくる。うまさと安さ定番メニューは299円。 食材はイタリアから直輸入。野菜は、自社農場で種から育てる。稀有の理科系経営者“うまさと安さで客はくる”と番組は始まる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池さん 「サイゼリアでなく何故ザイゼリヤなんですか?」 正垣氏 「意味無いんです。 朽ちないとか枯れないとかで適当に付けた。 潰れそうだったのですが」 村上氏 「外食産業は壊滅的で一人勝ちで秘密を明かすということで」 正垣氏 「うまくて安い」とズバリ。 090915_132050 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東京荻窪駅前のサイゼリヤ お客で賑わっている。お客の評判は、“これだけとって1,000円ちょっとで安くて美味しい” “安くて雰囲気が良い” “安くて味も良い” と評判は上々。 売れ筋のミラノ風ドリア299円 ペペロンチーノ299円 ミネストローネ149円 グラスワイン100円   これを見るだけでも安い!!!!!!!!!!!!!!!!! 正垣氏 千葉県市川にやって来て青果店の2Fがサイゼリヤ1号店(今は、記念館になっている) “このお店の時代は大変だった” と当時を思い出しなら、42年前、東京理科大学で理論物理学を学び、食堂でバイトしていたのがきっかけで洋食屋をスタート。 考え深げに“43歳までフライパンを振っていた”と。現実は厳しく開店休業状態が続き、正垣氏、実験を思い出し品質を落とさずどのくらい価格を下げるとお客がくるか? お値打ちを出すには、品質、作り方は同じで同じ材料を使って価格を下げる。3割引でもお客は来ない。5割引にしてもあんまり来ない。遂に7割引にまで値下げ。 すると連日行列が出来て安くて美味しければお客は必ず来てくれる。 更に分析して世界で売れている食材は、パスタ、トマト、チーズのイタリア食材。1972年にイタリアを訪問して庶民が安くてヘルシーな食事をしていることに驚き、日本人にも合うとイタリア料理専門店に転換。 バブル期の隆盛の後の崩壊、安さと美味しさを提供して国内に800店舗 その秘密は、究極の合理化にあるようです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東京は荻窪店 店長の仲居惠美子さん 厨房に一人で奮闘。 5連のクッキングヒーターで調理をしオーブンはベルトコンベア式。焼ける時間までに他の作業が出来る。これで無駄を省ける。 人件費と提供時間を削減できる。 番組スタッフが「包丁はどこに」 中井店長「包丁は使いません」と。 包丁を使わないサオザリヤの秘密は、工場でカットされたものが納品され作業の向上と安全、衛生面を考えて包丁は店舗では使わない。 サラダは、6皿分づつ袋に入っていてそれを盛り付けるだけ。ドリア用のライスは1皿用パック。 工場で加工してお店で仕上げる。 こうすることによって、安さと美味しさを保てるんです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日経レストラン 高柳編集長は、 「チェンストアの一番のポイントは信頼感。どのお店に入っても安定して美味しいものが食べられることが一番大事。 料理人に頼るとレベルを維持することが困難。工場での仕上げを徹底することで一定価格で美味しい料理がたべられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ その安さと美味しさを支えているのが神奈川工場。 関東580店舗のレタスを一括裁断して安全を求めることが食の安全に繋がっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ここで、スタジオでの会話 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
今回は、函館の若手スタッフ研修の完結編。 (1回目 2回目 3回目 合わせて読む) 前回のペシェ・ミニョンの若手研修は駄目出しの連続を繰り返しながら、平林の「接遇」を分かってくれる若手スタッフの中において金森店店長だけが反発していました。 金森店店長 「理想論だ」と決め付けるようでした。 それに対して平林 「アホも通り過ぎている。 ありえない。ガァーンと行きます。ドーンと押してやります。倍返します」と番組は始まる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 番組スタッフ 朝6:30に函館駅で平林と待ち合わせ。 平林何処へ行くかというと番組スタッフと一緒に函館の朝市で出向き、本当の「接遇」を理解していると朝市のお店の方々を。 常に“笑顔”これが接遇と平林は言う。 また、“威勢の良さ”も接遇と良い。 イカソーメンを試食しながら美味しさに驚く。 この“驚きも”接遇と言う。 お客とのふれあいを楽しんでいる会話これも接遇と平林。 “笑顔” これを持っていって研修やります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 若手のスタッフの総仕上げを開始です。  平林自ら接客をこなし、具体的に指導していく 「子供連れのお客さんには、子供の目線に合わせて子供から渡す(試食品)そすると、親も手をだすから」  「片手で商品を持たない」  「顔を見るな。 何か小言を言っているがわかるから」 等々。  平林、現場での研修が3時間が過ぎても店長との会話は交わさず。  金森店店長 何故そこまで自信が有るのかというと、入社1・2年で若手は辞めてしまい忙しいと8時間も立ちっぱなしでの接客。 そんな10代のスタッフを励ましながら頑張って来て1年半前の22歳で店長に抜擢されたという実績が彼女をそうさせているようです。 ここで、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
先日、エチカの鏡に 株式会社初恋の人探します社 佐藤あつ子さんが紹介されていました。 佐藤さんは、“気がかりで、後悔して人生を送って欲しくない” をモットーに聞き込み調査を基本に初恋の人を探しているそうです。 「初恋の人を探して」の依頼に答えたエピソードが紹介されていました。 その一つは、25歳の女性からの依頼。  それは、14年前に遡る。彼女が小学6年生の時、電車通学の時に気になっていた高校生にほのかな恋心を感じて、“名前を知りたい”どうすれば??????で考えたのが、アンケート調査として名前を書く欄を作って答えてもらう作戦。 そこには「こんどうまもる」とひらがなで書かれ彼の小学生に対する優しさがかいま見られた。 そして、彼女は、バレンタインディで 「ずっと前から・・・・・良かったらチョコレート食べて下さい」と告白。 そのお返しに彼女には、えんぴつが彼から贈られて「僕には、心に決めた人がいます」との返事。 彼女の淡い恋は叶うことがなかった。 それでも、彼女はその返事をお守りのように持ち続け、電車の中で会っても声を掛けることはなかった。 彼が高校を卒業すると見かけなくなり14年が過ぎ。 彼女は幾つかの恋をした。 電車を乗るたびにまもるを思い出す。 思い切って初恋の人探します社に電話。 調査結果もらった時、“もしかしたら”と淡い思いを持ち14年ぶりに再会。 まもるから「あんな小さな子がこんな花になるんだな」と。 2人は他愛もない会話そこには14年間思い続けたまもるの笑顔があった。 まもる「話しておきたい事があるんだ。実は、俺もう少しで結婚するんだ」 彼女は、覚悟をしていたのか「初めてデートして別れるんだからパーッとやりましょう」 (想像するに辛かっただろうね) そして、落ち込んだが一週間後彼女は決意。 “良い思い出ありがとうございました。 元気で幸せでね” と。 彼女は、このことで今は吹っ切れて幸せになっているそうです。  その二のエピソードは、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
今回で、伝説の講師平林都(ひらばやしみやこ)エチカの鏡に3回目の登場です。 今回は、前回放送(1回目2回目読むならこちらから)の函館のケーキ屋さんでの自ら店頭に立っての指導です。 平林都は、20年以上「接遇」を唱え、受け持った企業は100%の確立で売上を伸ばしているという。 前回2回目は、函館に7店舗を展開しているペシェ・ミニョングループの幹部研修。 ここで、平林は怒涛のごとく “髪の毛ばっかり気にして切ってしまえ!” “暗い。 お菓子が腐りそうや” “笑顔は金儲けや” “女の子が歯が出なくなったら使い道は無いと思え” “笑顔は女性がするもんやと思っていたら大きな勘違いやで”  “先輩、上司、幹部からやって見せること” と、役員にも怯むことは無かった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平林に、事前にお店の様子を撮ったビデオを見てもらいながら 「商品が素晴らしいだけに“接遇”しなくても売れていると思っている。 “ボコボコにしてみせます” 」と断言。 翌日、自ら働き実践研修の始まりです。 その店舗は、「スナッフルス 金森洋物館店」 お店の様子を窺い。 次々とスタッフの悪い所を指摘していく。 その指摘は、試食品の提供に「食べ物に唾が掛かるから商品はもっと前に出す!」 「レジばかり集中しない!」 「顔を見て物を言う!」 「大きな声で言う!」 「ようけ喋ったらアカンねんでー」と、スタッフの悪い点を指摘していく。 お店が混んで来ると自ら 「おはようございます。チーズオムレットでございます」と接客を始める。 小さな子供には、目線を合わせしゃがみ試食品を渡す。 始めてなのに“接遇”をこなしています。 これを見ていた社長 「先生素晴らしい。 感覚が凄い」  しかし、社長に若手スタッフの未熟さを見抜き若手研修が必要と説く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一方、若手社員に感想を聞くと 「忙しさの余り礼とか出来ない状態、取り入れられないと思う」  「混む時は、正直できないと思います」  「突然、来た先生が分かる訳も無く自分が違うと思ったらやらなければいい話」 と平林の指導を拒否反応を示す。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、2週間後若手研修が始まる。 ここで、平林から5つのお願いが、 ① 呼ばれたら「はい」と返事をする。 ② 立ち上がったら椅子を戻す。 ③ 中座は一礼して速やかに。 ④ 後ろに手は組まない。 ⑤ 素直な気持で臨む。 ここで、平林 「#$%さん 頭にはいりました? 細かく入りました?」 「細かく入っていません」 ムッとする平林 「細かく入らないのは書かないからです。 ペンを走らせていたのは、角田さんが一番。 店長は、チョロチョロしか書いていない。 ナメるな(*`益´*)! 」 「私は接遇をやっているんです。もう一回見てみたい。もう一回会って見たいなっていう女性になってもらいたい “ずばり女優” を演じていたら必ず人の気を引くことが出来る。 当然心も入ってくる」 と。まずは、笑顔の作り方。 どうするかというと「ハッピー」と言いましょう。 続いて行ったのは、8人を前に立たせて何処が悪いか出来ていない人物を名指しさせ合う。  指摘を受けた子は、涙が “ポロリ” と出てくる。 平林は、泣く子が嫌いらしい。 「泣くな。泣いたら人が注意してくれんようになるで。 逃げても何にも変わらんで徹底せい」 次から次へ・・・・・・・・ (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
地方 ”独立” 宣言 第一弾。 平田牧場創業者平田嘉一の登場です。  その誓いは、「日本一美味い豚」を作る。  男は、巨大企業と決別。 「販売」の革命、生産者を踏みにじったやり方だった。 そして、巨万の富は地元に還元、ジリ貧の町を生き返らせた。日本の畜産王が、吠える。地方は今こそ「独立」せよ!!と番組は始まりました。 小池さん 「何で、平田牧場なんですか?」 新田 「生まれたところが平田という地名。生まれたところを残したい。と名づけた」 090906_131934 =========== 平田牧場の豚肉は美味しいというブランドを確立しましたが、50年の戦いの歴史があり生産者はどうあるべきか?  平田牧場は、山形県酒田市にある。  三元豚は、なぜ美味いのか? 靴の消毒して浴室で体を洗い服からパンツまで履き替えて豚舎へ。生産部長の芝田さん 「病気は全て人間が持ってくるから徹底した管理」  1ヶ月で免疫が出来て広い豚舎へ移しストレスが出ないフカフカの寝床が美味しい肉質を作る。 餌は、遺伝子組み換え穀物や肉骨粉は不使用。通常の豚より20日以上もかけてゆっくり育てることで抜群の脂の乗りになる。 =========== 新田は、1933年に地主の家に生まれた。しかし、戦後の農地解放で一変家は没落した。  父親に “これからはの食事はたんぱく質中心になる。稲作を止めて畜産業をやろう” 提案したが、父はこれに激怒。勘当同然になった。  そして、豚2頭を購入。 “日本一の美味い豚を作ってやる” と誓った。  40年前に建った豚舎に大事にしている豚それは黒豚。  新田は、「お金いくら出しても売らない」  「100億円でも?」のスタッフの問いにも 「売らない。ないもの」 この黒豚が、味を決めている豚なのだ。日本一の豚肉を作ると決めた新田は、世界の豚を買って交配を繰り返した。  世界を駆け回って見つけ出したのが絶品豚の三元豚。 =========== スタジオ、 小池さん 「黒豚100億円でも売らない?」 新田 「島津藩がさつまいもで200年かけて出来たのが黒豚バークシャーなんです。 平田牧場には何百頭もいる。 30年前は、どうでも良いから持って行ってくれと、将来、黒豚の価値が上がることなど分からなかった。 トラックに詰めて持ってきた」 村上 「豚舎が綺麗でしたが?」 新田 「豚はものすごく病気に弱く、一晩で全滅することがある。豚は、清潔にしておかないといけない。安心してすごせるようにする」 新田は、さらに私の育ったのは戦前、戦中、戦後で何も無かった。 水しかなかった。と。 村上 「そいう記憶は何にか影響します?」 新田 「高校時代ある先生が、“日本にも将来、エンゲル係数が下がって美味しい食べ物を食べる時代がくる”と、と言った。これが一番ヒントになった。 父親は最後まで反対だった。 村上、米作りが農業の命?の問いに 「そういう考え方が強かった。私は最初から農業やって貧しい生活はやりたくなかった。 一旦決めれば妥協できない」 ここで、金言 「一度決めたら妥協するな」 ========== 酒田市で観光客が殺到するところがある。それは、平田牧場の直売所 平田牧場の肉は普通のスーパーには流通していないのだ。 1976年 新田はあることで悩めていた。 それは、大手スーパー ダイエーからの要求。 “これだけ仕入れているんだから安くしてもらわないと” 最初は、肉を評価していたが、値下げの要求ばかりになりでついに決断をする。  “ダイエーとの取引は、明日から全部やめる”  新田は、ダイエーの考え方が許されなかった。 ダイエーは、豚の生産者は、沢山いる。あんたが品物を出さなくても他があるから心配要らないと言われた。もの凄く生産者を踏みにじったやり方だった。(この辺が買ってやるといった上目線の驕った考え方なんですね。ダイエーは、後々大変なことになるなんてこの時は分からなかったんだろうけど。ダイエー中内さんの創業の理念は違っていたんだろうけど。驕れる者久しからずですね。ダイエーさん) 良いのもにはコストがかかるんです。それを理解して販売してくれる流通は日本にはなかった。今でも無いと思うよ と、新田。   さあ・・・これからどうする新田。 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
ルビコンの決断で、「POCARI SWEAT」の誕生の秘話が放送されていましたからちょっと紹介します。 番組は、健康飲料が活況で脂肪吸収を抑える機能性飲料が売れている。その中で30年以上のロングセラー商品が「POCARI SWEAT」。「POCARI SWEAT」の開発には大変な苦労があって、その時、経営者は“POCARI SWEATを無料で飲んでもらおう” と、「不味い」を「美味い」に変えたPOCARI SWEAT大逆転のドラマと番組は始まりました。 創業者の孫 大塚明彦(当時35歳)は、徳島の工場長。父正士氏は、「オロナイン軟膏」 「オロナミンC」を開発して大きく業績を伸ばしたカリスマ社長。 ================ ある日、味の天才 播磨六郎(オロナミンCの味を決めた人)は、社長に、「点滴を飲み物に出来ませんかね?」  社長 「どいうこと」 播磨 「メコシコに言った時大変な事になったんです」 それは、メキシコの水事情の悪さに激しい下痢をして入院。先生が、薬と沢山飲料を飲んで下さいと炭酸飲料と薬をくれた。点滴を出来る施設なら簡単だったが・・・・・・・・その時、脳裏に、手術を終わった先生が点滴液を飲んでいたことが思い浮かび、点滴液を飲みのもにすればいいんだと。 大塚は点滴液では国内トップシェア。 播磨 「点滴液を商品化できないかと思って」  明彦氏 「まだ。時期は早いかもしれない」  播磨 「時期?」 と怪訝な面持ち。 ================ それから3年後 明彦氏3代目の社長に就任。 播磨が、一人の研究者 高市晶彦を連れて社長室へ。 社長 「お願いがあって呼んだ。 点滴液を開発したいと言っていたね。」  播磨 「ええ」 社長 「最近ジョギングをしている人が増えているそうだね。健康志向が高まっている証拠」 (当時、ジョギングブームがおこりルームランナーがヒット商品となっていた。)  社長 「汗の飲料が出来ないか?」 播磨 「汗の飲料?」  社長 「汗をかくとナトリウムやカリウムが、体から出てしまう。それを補うような飲料を作りたい。毎日飲んでも飽きない味。喉越しの良いものじゃないと駄目」 と。 高市 「汗の飲料 面白いことを言いますね」  播磨 「それは時間を掛けて見つけるんです。新飲料は任せたよ」 と。 ================= 高市は、サウナに向かい汗を採取。 会社の近くでうっすらとかいた汗も採取して両方の汗を分析。 汗は、サウナでかいた汗には沢山のナトリウムが含まれていて、日常飲むなら数値の低いものを基準に作ればいいんだと判断して試作品を作ってみて、播磨に飲んで貰い感想を聞くと 「苦い。飲めたのんじゃない」 高市 「苦くても身体に良ければ飲んでくれるのでは?」 播磨 「薬なら苦味は気にならないでしょう。 作ろうとしているのは清涼飲料水だ。忘れないでくれ」  味も天才を納得させるのには大変。 ================= ここで、スタジオの木村さん 「POCARIが、点滴液を飲んでいたことから開発されていたなんて始めてしりました」 私も、初耳でした。 ゲストの高柳正盛氏 ロングセラーになる条件は、 ① 新しい市場を切り開く  ②ブランドイメージを守る。 (パッケージを変えたりするとコンセプトが見えなくなる) ================= 開発から3年が過ぎ、社長に試飲するも、 「苦味が残りますね」 と。 その時、粉末ジュースの試作品も試飲するも 「まだ、まだ」  すると、社長、出来損ないを混ぜてみたらおもしろいのではと混ぜて飲む。 「これはいけるよ。 君たちの飲みたまえ」  播磨 「苦味が消えていますね。これは、なんですか?」  「柑橘系の粉末ジュースです」  播磨 「柑橘系の美味しい苦味が、苦味を消してくれたんだ」  この社長の行動が一歩進ませてくれた。 高市は、柑橘を求めて試作・試作を繰り返し遂にある果物にたどり着く (それは、大塚製薬の企業秘密になっているそうです)  等質濃度を7%と6.2%にして試飲すると研究員は7%が美味しく感じて評判が良かった。  しかし、播磨にはある考えがあった。  研究員を連れて山登りして汗をかいた時に飲むと6.2%が美味しく感じた。  播磨は、汗をかいたとき美味しいと感じないとだめだと研究員を諭した。 ================= 播磨、社長に試飲してもらい判断を仰ぐと、社長 「この味で行きましょう」と判断。 そこで、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
番組は、「剥げません」 めっきはローテクからハイテクへ働きやすい環境に4億円、研究開発に5億円 「女性の力で未来を拓け」と、紹介があってエビナ電化工業 海老名信緒氏が登場。   エビナの最大の武器 それは、女だらけの工場。 村上龍 「めっき工場って危ない薬品を使っているから近づくなと言った感じでした。が、先進的なことをやって来て成功したね」 海老名信緒 「女性ででないと出来ない物が多いから女性が半分。後、3~4名決まると男性を上回る」 ==================== エビナ電子工業は、大田区に従業員100名が働いている。 エビナは、誰もやらない、誰も出来ない物をやっている。 ローテクをハイテクに変えてきた。 ガラス基板へのめっき、0.01ミリのカーボン繊維へのめっき。 高機能めっきで他社の追随を許さない。 その中でもギネスブックに紹介されている。人間が作った最も黒い物質「ウルトラブラック」 090827_123003右が「ウルトラブラック」 光を当てても反射しません。 海老名 「直ぐには出来なくて1年間かかりました。 これを繰り返し出来るかが工業化で、作っただけではサンプル」 1946年 エビナ電子工業は、父 平吉が創業。 メーカーから発注を受けるどこにでもある町のめっき工場だった。 当時、エビナを支えていたのが、スーパーカブのバックミラーのめっきを受注して発展した。  信緒氏は、慶応大学大学院で電気化学を学び入社。  80年代の円高不況。 この時に変革したのが信緒氏。 それは、1984年にアメリカに視察に行った時、プラスチックにめっきすれば電磁波漏れない。事を知り驚き、開発はここまで進んでいるのかと。  「アメリカに行ってプラスチックにめっきすると電磁波を抑えると、そういうことは、日本にいる人は知らない世界。 お客から “電磁波を防げるめっきはない?” と言われたのでは遅い、チャンスは先にお客に情報をこちらから提案できるのが強み」 と。 1986年に「電磁波シールドめっき」の工業化に成功。 そして、時代はノートパソコンになりいっきに業績を上げ、更に、携帯の時代となり「電磁シールドめっき」ではトップシェアを獲得。 ====================== そして、新たなターゲットに向けてスタート。 それは、アメリカのパーム社スマートフォン(パソコン機能付き)の①通信②GPS③無線のめっきを受注することになった。  それは、パーム社は、中国に発注していたがめっきが雑で汚れが目立ちトラブルが続いていたから、エビナに話が来た。 “今では、世界が頼りにするめっきやさん” エビナ電子工業のモットウーは、 090827_124804 「SPEED   PLUS」 仕事のスピード、そして時代を読むスピード。 ==================== 海老名 「奈良の大仏はブロンズで出来ていてめっきしていなかったらぼろぼろになる。金めっきがつけられていた」 村上 「めっきは剥げるという悪いイメージが?」 海老名 「剥がれるようだったらとっくに消えている。生き残っていない。めっきが剥がれたら存在価値がない」 村上 「オイルショック以降めっき工場は減ったような、プラザ合意ですか?」 海老名 「輸出商品がいっきに減った。 日本以外で出来るものは無くなました」 村上 「ハイテクのきっかけは?」 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
カンブルア宮殿にモンベル会長 辰野勇が出演していました。 モンベルは、全国に61店舗。 売上280億円 日本唯一のアウトドアメーカー。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 村上龍 「アウトドアブームは、何時からですかね?」 辰野勇 「山登りを始めた頃はアウトドアという言葉は無かった。ベトナム戦争が終わって自然回避が起こり市民権を得てアウトドアという言葉が出来てきた」 ・・・・・・・・・・・・・・・ 大阪市西区 モンベルの本社 この日、会社の創立記念総会が開かれ、メインイベントは、床に座り皆でコッペルでカレーでランチ。  この会社面白い(。´pq`)クスッ ・・・・・・・・・・・・・・・ 辰野勇は、中学時代に山登りの魅力に取り付かれ、1969年にスイスのアイガー北壁に挑み21歳で登頂成功(当時、世界最年少記録)  彼には、あることが発端で転機がくる。ある冬山での登山中ザイルは凍り何とか岩場にビバークするが、手が凍傷になったことで生き方が決まった。  それは、安物も手袋をしていたせいで指2本が凍傷に。  辰野は 「初期の手当てが良かったから切断に至らなかった」と。  この時、装備の重要性を痛感し“もっと登山家にとって安全で快適な装備が作れないか? “もの作りをしよう” と、1975年にモンベルを創業。  「mont-bell」 はフランス語で “美しい山” という意味。 1976年に寝袋を開発・発売。  それは、デュポン社の“ダクロン”という繊維を使った寝袋で、一般的には羽毛の寝袋だが水に弱い。ダクロンの繊維は、中が空洞で空気を溜め込み温かく絞れば直ぐに乾くという特徴がある。  当時を思い出し辰野は、「高価で仕入れ担当は、化繊の寝袋が何故高いのか? と取り合ってくれなかった」 と。  しかし、ヨーロッパの登山家の間で評判になりmont-bellは世界的に知られるようになる。  それ以降、ハイパロン、オーロンと次々商品を出して行った。  商品開発のモットーは “LIGHT&FAST” (軽量と迅速)  開発中のもは全て目を通し問題点を発見して。  「これじゃ凍傷になる」 とダメだし。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここで、辰野がした冒険のボードがスタジオに登場。 1967年  19歳  北アルプス前穂高岳 屏風岩登頂(最年少) 1969年  21歳  ヨーロッパアルプス アイガー北壁登頂        21歳  ヨーロッパアルプス マッターホルン登頂 1988年  40歳  黒部川をカヤックで下降 1991年  44歳  ネパールのトリスリ川 カヤックで日本人初下降 1992年  45歳 グランドキャニオン カヤックで日本人初下降 1996年  49歳  東チベット ヤルンツァンボー川大屈曲点探検 と、数々の冒険が羅列され、 小池さん  「思い出に残っているのは?」 辰野  「アイガー北壁。原点です」 村上  「登れるようなもんじゃなさそうだけど」 辰野  「アイガーがは1800メートルの垂直の壁。  人間は、1mは登れる。それが、1800メートル続いているだけの話」 さらりと。 村上  「そうですけど? それで、会社を作るわけですが、マーケティングとか」 辰野  「28歳で会社始めた時、大きくなる可能性があるか考えた。  登山関係も市場が500億円。  2割位は取れると思った。登山がダメならテニスやゴルフの用品をやるとか、マーケットを広くすればいい話。  山が好きで始めた会社が結果300億円。あながちはずれていなかったな~~~」 小池  「ダクロンの開発の話ですが」 辰野 「前に、繊維商社にいて産業資材の高機能素材と出合った。  素晴らしい素材があるから、登山装備には苦労したからテントは重いし濡れたらどうしようもない。 それを使ったら解消できるんじゃないか? で、メーカーを志すことにした」 と。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ モンベルには、一風変わった社員が、 ジャングルに行ったり洞窟の案内をしていた人、  カヌーのフリースタイルで世界選手権に2度出た人、  南極観測隊に2回参加した人。  普通の会社は、アリエナ━━Σ(。・д・ノ)ノ━━イッ  モンベルだからこそでしょう。  それが、商品開発に活かされるような気がする。  それがたぶん強みなのではと思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 企画部には、年間600件以上のアイディアが集まる。  そのアイディアから出来た商品が女性用のライフジャケット。  胸の部分が薄くなっていてカットされていて女性に使いやすそうでした。  開発部の数見さんが考案しているのが、「アイゼン」 ベルトに雪や泥が入らない工夫。  その商品をテストするのは長野店の沖原さん 白馬の大雪渓でテスト。  結果を報告。 「赤いボタンが出すぎで何かに引っかかったら外れる可能性がある」 というのでした。 数見さん 新たに改良してを試作品を作っていた。それを、開発会議に掛けることになり、辰野が見るや  「これは、特許ですね。 特許です。 放送されると不味い」 と。 そこで、本格的に冬山でテストすることになった。   村上  「数見さん いい顔してます」 辰野  “笑顔” 小池  「趣味を仕事にすると楽しめなくなりません」 辰野  「そんなことは無いです。  好きなことをやれればこれに越したこと無い」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここで、村上がモンベルの強さを分析 “伝統的な登山用品メーカーは頭が硬くて、新素材に目を向けなかった。  新素材を使いやすいものを経験や感覚とアイディア。  一定数の山登りファンが要れば成功する。  ライバルはユニクロじゃない。  ただのスポーチ用品ではないものねーーー” と。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そこで早速、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
ソロモン流に、和風空間プロディーサー 松葉啓氏が出演していました。  全国130ヶ所以上の旅館など独自の感性と技術で数々の和の世界を生み出してきました。 モダンなのに、何処か懐かしい。  多くの雑誌が、彼の作品を絶賛し、松葉マジックと紹介しています。 松葉氏は、「和の良さ、和のバランス、和のディテールの綺麗さ。 和をいかに進化させていけるか、何時もチャレンジしている」 と語る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 北川温泉 「望水」 5年前にデザインした露天風呂 “ときの凪” これが評判になり東日本ヴューのポスターになり松葉のシンボル的存在になったようです。 松葉は、「ポイントは、新旧のバランス、昔からあるようにみえたり、昔からある物と言うのは文化であって歴史であるという形に頭の中で変換していくと落ち着きが出て“伝統”と“癒し”の和空間をあらわす」 と。 「望水」 代表の近藤氏 「しみじみ良いものが出来たなと、喜んで頂けるお客様から 『ありがとう』 の言葉が頂けるという自信が沸いてきた」 と。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松葉の事務所は、東京都 中野に 株式会社アーキテクト・ケイを構えスタッフ4人  皆、その道のポロフェッショナル。  松葉は、温かいイメージを大切にするため 「コンピュータの時代に相変わらず手作業で平行定規で線を引いていく、これでスケッチを描いていく」 と。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 水上温泉 「別邸 やえ野」 2組しかお客を取らない贅沢な宿。  これが評判になり元々ペンション経営をしていたが、これを壊して新たに松葉に依頼して新しい空間を作り出す予定。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また、新しい仕事の依頼で南房総 鴨川の天津小湊の「蓬莱屋」にやって来て現状の把握とオーナーと打ち合わせ。  オーナーは、子供たちに継がせるために今風の旅館に変身を考えている」  松葉 「建物的には。なんの変哲も無い旅館。で、おいくらで?」  オーナー 「トータルで1億円 最高の形でバトンを渡したい」 と。 蓬莱屋を見て松葉 「看板が無かったら何屋か分からない。建物の色彩から直さないと、形状も色を塗り替えるだけでは、手に負えない」  部屋に入ってユニットバスを見て 「自分の家より下だったら使わない。 安い部屋だと思ってしまう。  手を加えることで来て良かったという部屋に改造は可能」 と判断。それは、どんな方法で、 (続きを読む…) ツイートこの記事をつぶやく
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