日経新聞夕刊 「人間発見」 に黛まどか氏が紹介されてきて5回目。 本日が最終回の紹介となります。          10月末、岩手県岩泉町を訪れ、句会を開いた。 4月の訪問以来、行くたびか被災地を訪れたが、岩泉は半年ぶりだった。          111203_132611    再開でした。 4月に 「何もかもなくなっていまはむしろ清々しい」 と言っていたおばあちゃんが 「今だから言えるけれども、当初は本当に俳句でエールが送れるのか、半信半疑だった」 というのです。 でもチラシに有った拙句 (満開の桜は明日を疑わず) を読んで 「にわかに生きる勇気がわきました」 と言ってくれました。      俳句は短いだけに直接響き、一瞬にして心の向きを変えられる。 「がんばってね、つらいのはあなただけではない」 と言葉を尽くしても、引きこもりや病気の人の心に向きを変えることは難しい。 俳句は直接的なことは言わないけれど、それゆえに本人が自分の意思で心の向きを変えられる、と再確認しました。      仮設住宅に住んでいるおばあちゃんたちに 「今何が必要ですか」 と聞いたんです。 顔を見合わせて 「何もないわね」 「満ち足りている」。 「亡くなった方々には申し訳ないけど、私たちが津波に教えられた。 この年で大事なことを教えてもらってありがたい」 とも。 前を向いているんです。      「身一つとなりて薫風ありしかな」 を詠まれた方とお会いできたのも感動的でした。 句の通りの方で、爽やかで力強く、俳句は人を表すと感じました。 この句は被災者でない人までも励まし、生きる勇気を与えました。              「フクシマの歌」 取り組む一方、被災地で詠まれた兵句を英語、フランス語での出版など国際発信に心を砕く。 「余白の文学」 である俳句の国際化には課題も。          現在、作曲家の千住明さんと福島の応援歌を作っています。 放射能汚染のために離散している福島の人たちの心が一つになるような、また世界中の人たちに福島の本来の美しさと豊かさを伝えることが出来るような歌にしたいと思っています。      来春、被災地で詠まれた俳句をまとめて刊行する予定ですが、英語圏、フランス語圏でも出版する企画を進めています。 いかなる惨状に有っても自然を尊ぶ心と詩を読むことを忘れない日本人の美徳を、俳句を通して世界に伝えたいと思っています。      俳句の国際化には、くどうようですが、有季定型の型が大事だと思います。 大きな意味で自然詩であり、もうひとつは定型です。 日本語の五七五に近い情報量で英語、フランス語それぞれの国の言葉で心地よいリズムがあり、韻を踏むとか頭韻を踏むとか統一のルールを作らないといけません。      自然を尊び、小さなすみれでも命の輝きを詠む。 型があるからこそ、余白が生まれる。 文字になってもいない、文学の周辺にもある物、実態の背後に有る見えないもの、余白に有るものを察して、感受していく。      察すること、他者をと尊ぶことは、世界が抱える諸問題、環境問題や紛争などの解決の糸口にもなりうる。 それは日本の文化力でしから、世界に向かって強調していくべきだと思うんです。            俳人にとって最も大切なのは俳句を作ること。          自分の俳句を精進していきたいと思っています。 俳句に出会ってよかったのは、どんなことでもプラスに転じていることです。      病気や苦しい経験を通して心のひだが増える。 感受性も豊かになる。 苦労が無駄に終わらない。 どんなことでも避けずに失敗を恐れずにやっていこうと思える。      俳句は難しいです。 教養があれば出来るというものでもないし、感性が有っても言葉に結実しなければ俳句にならない。 俳句はひたすら修練だと思います。      鈴木真砂女さんは俳句と二人三脚で生きたとおっしゃっていますが、そのくらいののっぴきならない関係にならないと、なかなか手に負えない。 俳句を始めて22年、気がつけば私も、俳句なしでは生きていけないくらい、のっぴきならない関係になりました。        <革命記念日地下鉄を乗り継いで>        と、最終回の紹介でした。                 ツイートこの記事をつぶやく
       黛まどか氏を紹介するのは今回で4回目になります。           2001年、韓国を歩く。          サンディエゴの旅を機に歩くことにこだわるようになりいました。 韓国への旅は1999年に小渕恵三首相と金大中大統領との間で日韓文化交流会議ができ、委員に選べれたのがきっかけです。       私に何ができるかと考え、日韓関係の本を読みましたが、やはり俳句を作ることしかないので、歩いて韓国の美しい山河と人々を俳句でたたえる旅にしようと思いました。       2001年8月21日、女性編集者と一緒に、釜山からソウルに向け出発しました。 俳句を作るのが目的の一つだったので、4つの季節を歩きたいと思い、約500キロの道のりを4回に分けて歩きました。 当時、首相の靖国参拝で一時的に反日感情が高まっていたのですが、田舎だったせいもあるのか、全く関係ありませんでした。 釜山からソウルまで歩いている人なんていないですから、みんな親切にしてくださいました。      ご飯をご馳走になったことは数限りないです。 1度だけ泊るところが見つからないうちに日暮れになってしまったことがあります。 通りがかったおじさんに旅館はありませんか、と聞いたら 「このへんはないよ」。 結局奥さんと相談して泊めてくださいました。      偶然ですが、娘さんがお茶の水女子大に留学中だったので、その娘さんの部屋を使わせてもらいました。 お母さんは朝早く起きてご馳走を作ってくださいました。 さらにに食べ物や飲み物をたくさん持たせてくれました。 別れるときに泣き出して 「もう会えないよね」。      でも、その後、日本で再会することが出来ました。 娘さんは日本人と結婚したと聞きました。 それまで反対だったのが、結婚を許したのは私たちとの触れ合いがきっかけらしいのです。        <豊年の風にふくらむチマチョゴリ>              2005年に発足した日本再発見塾は、日本各地の文化、伝統、歴史に触れ、その魅力を改めて見出し、地域と日本を元気にする活動。 その呼びかけ人代表を務める。          地域おこしに俳句をという自治体があり、福島県飯館村や岩手県葛巻町に行きました。 葛巻は風力発電の街ですが、どうせ風を起こしなら、文化の風を起こそうと10年程前から俳句コンテストを始めたんです。          111202_130042        江戸時代から続いている葛巻俳句会のおばあちゃんたちの指導を得て町民も俳句を学び、俳句を見る目を通したら、何もないと思っていた自分たちの町が宝の山だと気がついたというんです。      それを聞いてピンときました。 よそ者に目を持ち込むと、土地の魅力が再発見できるんだ、と。 地方と地方、都会と地方、もう一つはジャンルとジャンルをつなぐことです。      坂東三津五郎さんはじめ、伝統文化の世界に友人がたくさんいますが、異口同音に 「今はいい、でも20年、30年後が心配」 と言うんです。 ジャンルの垣根を取り払うことで新しい可能性ができる。 もう7回を数えました。 来年は6月に飛騨高山で開催します。              2010年4月から1年間、文化交流史としてフランスに滞在。 欧州を回って俳句を指導した。          サンディエゴ巡礼がきっかけでフランス人の友人ができ、パリで何度か講演しました。 それが文化交流史につながりました。      ヨーロッパは俳句が盛んですが、きちんとした型が伝わっていない。 フランスを拠点に、ルーマニア、ハンバリー、ベルギー、トイツ、イギリスにも行きましたが、みな自由にやっているんです。      講演で有季定型の型の必要性を強調すると、質疑応答で 「日本の俳句は入ってきて何十年にもなる。 自由にやってもいいじゃないか」 という意見がよく出ます。 だったら俳句と呼ばないでほしい。      パリでは1年間定期的にクラスを持ちましたが、受講生たちはいけばなや茶道などもやっているので、すぐに型が分かるんです。 これからも型と言う日本文化の原点を時間をかけて説明していかなくてはいけないと思っています。  (日経夕刊)          と、4回目を紹介しました。  明日は、最終回をご紹介します。                     ツイートこの記事をつぶやく
       日経新聞夕刊の 「人間発見」 のコーナーに俳人 黛まどか氏が月曜日から紹介され朝に月曜日分を紹介しましたが火曜日分を紹介します。              神奈川県湯川に生まれる。 父は俳人で 「春野」 主宰の黛執氏。          普通の子供でした。  111130_175036   本は嫌いだったんです。      小学校1年生のクリスマスの朝、枕元に少年少女文学全集が並んでいました。 腰が引けてしまって、とうとう読まずに6年生になってしまった。 その代わりに父に連れられて、野山を良く歩きました。 俳句を作ろうと思ったことはなかったのですが、万葉の歌など自然にそらんじていました。      うちは父の両親と一緒に暮らしていました。 母の実家も同じ湯河原にありました。 両父母とも畳の上でみとっています。 それを見て、死の壮絶さ、厳粛さを子供心に感じました。 命を大事にしなければと思いましたし、他の子供に比べて、死の意識が近いところにあったように思います。              1983年、フェリス女学院短大を卒業、富士銀行(現みずほ銀行)に。          銀行は向いていないと思っていました。 友達が銀行を受けるというので就職課にいっしょに行きました。 そこで 「黛さん、まだどこも受けていないじゃない。 富士銀行にもう一つ空きがあるから、一緒に説明会に行ったら」 と言われ、行ってみたら、その後面接があったんです。 趣味はと聞かれ、カラオケです。 おはこは。 松田聖子の 「白いパラソル」。 歌ってみますか。 振り付けで歌ちゃって。 その日、家で夕食を食べていたら 「内定しました」 と電話が。      他の興味の持てる仕事も見つからなかったので、そのまま就職しました。 今銀行にお勤めの方には申し訳ないですが。      新入行員研修が大変でした。 そろばん、札勘定をやるんです。 漢字のテスト以外は全部クラスでビリ。 グラフで成績が廊下に張り出されるのがつらかったです。       東京で初めて一人暮らしも始まりました。      研修は辛いし、毎日帰って泣きながら母に電話して母も 「辞めて帰ってきたら」。 そうしたら1カ月の電話代が初任給よりも高くついた。 いつまでもこのままではいけない、と覚悟を決めました。       結局3年間勤めました。 祖母に石の上にも三年と言われて育ちましたから、3年は頑張らないと、と。 でも、頑張ったのは銀行の方だ、とよく言われます。      行内の冊子にエッセーを書かないかと言われ、軽い気持ちで書いたことがあります。 その時、同じ部署に文学新人賞を取って銀行員の傍ら小説を書いていた方がいて、その方から 「君の文章読んだよ。 すごくリズムがあってよかった。 きっと将来文章を書く仕事をするといいよ」 と言われ、その言葉通りになりました。              銀行を辞め、テレビのリポーターに。 俳句との出会いも。          「遠くへ行きたい」 という番組で、北九州に俳人、杉田久女の足跡をたどりました。 俳句を作り始めたのは、その頃でした。      久女が神がかったように登った英彦山に登りました。      久女の句に 「谺(こだま)してやまほとゝとぎすほしいまゝ」があります。 下五の 「ほしいまゝ」 がでるまで英彦山に通い詰め、ある時夜中に 「ほしいまゝ」 が浮かんだそうです。              93年、病魔に襲われ、半年間、闘病する。          ある日突然全身に痛みが走り、肝臓の数値が3桁まで上がりました。 原因が分からない、A型もB形もC型も出てこない。 原因が分からなくてF型慢性肝炎と診断されました。      出来るだけ動かない方がいい、と言われたんです。 動けば動くほど肝硬変になる時期が早くなって寿命が短くなる。 若かったから、やりたいこともたくさんあり、人生が半分終わったように思えました。      ところが半年後に数値が突然下がり、抗体が出来たんです。 結局、風邪の菌が肝臓と末梢神経に入ってしまったことがわかり、間もなく完治しました。 病床でたくさんの俳句を詠みましたし、古今東西の俳句に日々励まされ、癒されました。 俳句に支えられた闘病でした。      <春隣病めるときにも爪染めて>        と、紹介されています。  人には歴史があるんだと感じますね!                        ツイートこの記事をつぶやく
       月曜日、仕事が一段落して “ちょっと寄っていくか!?” とカズマサ君のお店 「かぶき 神田南口店へ。        screenshot   「今日は、平塚港から美味しい魚来てる!?」          「有りますよ(o^―^o)   110622_115719  糸引き鰺を一夜干しにしたから食べてみてください」        って焼いてくれたのが、                   DSC_1135        これです。         「意外に美味いね!! 身はサッパリしているが干してあるからうまみが“ギュッと”詰まっている感じがする」        「でしょう!!  俺が作るんだから美味いに決まっていますよ!!」 ってドヤ顔。             で、日経夕刊を広げ 「人間発見」 で紹介されている俳人 黛まどか氏のコーナーを読んでいると、        おもむろに 「┏(゚ェ゚) アレ? 黛まどかじゃねっすか!?  中学校の同級生すっよ!」 ってまたまたドヤ顔!!        「Σ(・ω・ノ)ノえっ!  マジかよ!!」        「ホントっすよ!!  それに、船越英二の妹も同級生っすよ!!  俺らは相手にっされなかったですけど・・・   だって先生なんかお前らはバイクの免許とるんだろうからその辺でバイクの免許の勉強でもしてとって、授業の邪魔すなよ!的な感じでした」        「それで、今のカズマサ君があるんだ!! もっと勉強しておけばよかったのによ」        「当時は、分けわかんねえじゃネッスか!?」        「そりゃそうだ! 今になって後悔してるだろう? もっと勉強しておけばって」        「そうなんですよ ・(。>д<。)・ ねえ頭使って仕事してんすから疲れますよ」        「それよりも、カズマサ君のブログ面白くねえよ(*`д´)」         「しょうがねえじゃねっすか!? 110406_104556  脳みそねっすから」          「60の手習いっていうから努力すれば大丈夫?ヾ(・∀-`;)だよ!!」           なんて話しをしているうちに夜は更けて家路につきましたが・・・ 人のつながりって分からない物です。            それでは、黛まどか氏が 「人間発見」 のコーナーに紹介されたものを紹介してい行きます。              17年前に 『B面の夏』 で戦列にデビューし、俳句の世界に新風を巻き起こした黛まどかさん(49)。 俳句を通して人を励まし、外国で俳句を教え、オペラの台本を書く。          パリで東日本大震災の一報に接しました。 パリで長く仕事をしていて故郷の宮城県に帰ったばかりの友人からのメールでした。 『町が燃えています』 という1行でした。 テレビを付けたら津波の映像が目に入りました。      「今から逃げます」 というメールも。 しばらくして 「がれきのまちにうつくしい星空が広がっています。 これまでの人生で最も美しい星空です」 と。 日本人ってすごい、と思ったんです。 自然と共生してきたといういわれるけれど、あの状況で星空を美しいと仰げるのですから。 俳句が役立つのではないかと思いました。      文化庁の文化交流使として1年滞在したフランスから4月に帰国し、被災地へ行きました。              4月22日から4泊5日で被災地を訪問。 福島第一原子力発電所に近い福島県飯館村を訪ねた後、相馬市、新知町、宮城県石巻市、岩手県野田村、岩泉町、山田町の避難所を回り、編著 『あなたへの一句』 と短冊を配り、俳句を詠んでもらった。          石巻の子供たちが俳句を作りたいと言ってくれました。 マグロ船に乗っていた80歳近いおじいさんからは 「食べ物より本が欲しかった」 と喜ばれました。 がれきの中から拾ってきた泥だらけの本を見せてくれました。 子供向けの歴史書や経済の本を乾かして読んでいるようでした。       「あなたへの一句」 は、いじめに悩む歩とたちを激励するために始めた無料携帯メールマガジン 「俳句でエール!」 (http://madoka575.co.jp/pub/) で紹介した人生の応援歌をまとめた本です。      「俳句でエール!」 は、今は被災地を励まし、あるいは被災地の方々からの投句の場になっていますのでが、一度覗いてみていただれば、と思います。 野田村の方から届いた 「身一つとなりて薫風ありしかな」 という作品がありました。 津波で何もかも流された方です。 にもかかわらず、こういう句が詠める日本人は尊い。      俳句は思いを言わない文学。 その分、昇華する。 逆に余白すさまじいものを感じる。 悲しいことを悲しいと言ったらそこでとどまってしまう。       「身一つとなったが、薫風が吹いているではないか」 と言い切ったときに、その人の舞台が上がる、言葉の力。 人の気高さと俳句の力を思いました。              6月に東京文化会館で演奏形式のオペラ 『万葉集』 が上演された。 作曲は千住明氏。 大津皇子と大迫皇女のレクイエム 「二上挽歌(ばんか)編」 は涙を誘った。          父 (俳人、黛執氏)が万葉集の勉強会をしていて子供の頃から、万葉の歌の舞台に連れていかれました。 当時は興味がわかなかったんです。 大和三山って言われたも、こんな山かという感じで。 でも万葉集を好きになっていました。      歌を手掛かりに台本を書く。 あらすじはあってないようなものです。 「明日香風編」 では額田王の姉ともされる鏡王女を出したかったのです。 鏡は最初は天智天皇の妻の一人だったのですが、天智天皇が妹の額田を娶り、中臣鎌足に下賜されます(諸説あり)。 鏡王女は、他の奥さんと鎌足の子どもを育てつつ、鎌足が病気になると、山階寺 (興福寺の前身) を建て、平癒の祈願をする。 一方で額田は二人の天皇を相手に歴史の大事な場面で歌を作り、十市皇女を産む。       姉妹で生き方が全く違うのですが、どちらも自分らしい生き方を貫いた。 男性優位の時代で与えられた運命の中で生ききった女性です。 今私たちは、掴み取ろうと努力することは多いのですが、与えられたものを受け入れる強さが無いのでは。 だから自己実現という言葉がでてくる。      抗うことのできない人生を精いっぱい生ききった、どちらも見事な生き様だと思います。        111130_123830       <恋争ひ三山も粧へる>        と、第1回目の紹介でした。                   ツイートこの記事をつぶやく
       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに作家伊集院静氏が紹介されていて最終回をなかなかご紹介できませんでしたが遅れましたがご紹介します。          1992年、女優の篠ひろ子さんと結婚、住まいは仙台市に移す。          雅子さんの七回忌を済ませたことと直木賞受賞が一つの区切りだと思い、再婚を決意しました。 しばらくは彼女が住み都内のマンションに一緒に暮らした後、彼女の故郷である仙台に引っ越しました。       結婚する時、ひろ子さんの両親に雅子さんのことは書かないと約束しました。 今年出版した 『大人の流儀』 で当時のことを書いたのは、ひろ子さんと雅子さんの両親がみんな亡くなられたからです。 現在、1カ月のうち20日間が仙台、10日が東京という生活で、小説は仙台で執筆しています。      直木賞をもらった時は、父が喜んでくれると思ったのですが、まだそんなことをやっているのかと言われました。 父にとって男の仕事とは、従業員を沢山雇って事業をすることなんです。 その後もずっとそんな調子で、少し認めてくれたのは2002年に 『ごろごろ』 で吉川英治文学賞をもらってからですかね。              しばらくヒット作品が無い時代が続いたが、今年出版の 『いねむり先生』 は10万部のベストセラーになった。          妻を失った男と小説家の交流を描いた作品です。 この小説は色川武大さん。 本名で純文学を書きながら阿佐田哲也の筆名で 『麻雀放浪記』 などの博徒小説を書いた人です。 知り合ったのは先生が亡くなる2年前で、一緒に全国の競輪場を回る 「旅打ち」 に出かけました。 以前から書きたかったのですが、60歳を過ぎ、先生が亡くなった年を超えた。 それで今、自分が見た先生の最後の2年間を書いておこうと思ったのです。       作品では先生への無条件の敬愛を表現しました。 色川さん傲慢さが全くない人でした。 時と場所を選ばず突然睡魔がやってくるナルコレプシーという病気を抱えていましたが、一生にいると心が安らぐんです。 当時の私の雅子さんを亡くした直後で神経を病んでいたから随分救われました。      反面、小説家としてはすごい人でした。 それまで小説というのはカルチャーセンターで勉強すれば書けるものだと思っていました。 でも色川さんを見て、小説を書くべき人間が書くんだと初めて分かりました。 それで自分はダメだと思った。 でも編集者に言われました。 何も色川さんほどの人にならなくてもいい。 席はいくつもありますからって。 書かせたいもんだからうまいことを言うんです。            還暦を過ぎて精神的に執筆を始めた。 今年から直木賞の選考委員も務める。          昔、父が韓国から呼んだ占い師に見てもらったら、私は60歳まで生きたら必ず成功すると出たんです。 それでずっと60歳になったら書くと宣言して、出版社から前借していたんです。 それもあって還暦が近づいたころから意識して書くようになりました。 確かに今年出版された本は多い。 でも、「大人の流儀」 や紙と電子書籍で出した 「なぎさホテル」 などエッセーがほとんど。 小説は 「いなむり先生」 だけです。 ブームだなんて言われていますが、すぐ終わりますよ。      いろいろなジャンルに挑戦しようと思って、推理小説を始めて書きました。 雑誌 「オール読物」 で 「星月夜」 という作品を連載した。 来年は新作も発表します。 推理小説は面白くしよう、面白くしようと思えば、文学から離れて行くようなところがありますが、文学性のあるものにしようと取り組んでいます。 その後、吉田松陰を主人公にした時代小説を書きます。 自分なりに明治維新とはなんだたのかを考えたみたい。 現在、河北新報で 「青葉と天使」 という仙台を舞台にした新聞小説を連載していますが、この作品では震災のことも取り上げます。      直木賞の選考委員は自分を認めてくれた賞でもあり、喜んで引き受けました。 日本文学のレベル引き上げるとともに、書店で本をたくさん買ってもらえるような作家を育てたいですね。 私は新人賞の選考委員もいくつか務めています。 新しい人が目指す新しい世界は常に新鮮で刺激を受けます。      私は人間としては、戦火の中、義弟を救いに行った親父を一生超えることはできないと思っています。 でも小説家としてはまだこれからです。 つらい屈折の時間が長かったことが今後の人生の支えになってくれるでしょう。        以上、日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに作家 伊集院静氏が紹介されていました。 今回が最終回となっります。        合わせて1回目を読む。 2回目を読む。 3回目を読む。 4回目を読む。             ツイートこの記事をつぶやく
       今回で日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに紹介されて4回目になります。           1977年、科商品会社のキャンペーンに夏目雅子さんを起用。          彼女と初めて会ったのはパリです。 当時私は広告制作会社のディレクターで、カネボウ化粧品の夏のキャンペーンの制作に当たっていました。 フランス人男優のジャン=ポール・ベルモンドを女性化粧品に起用するユニークな企画だったのですが、詐欺まがいのトラブルに巻き込まれ、頓挫しました。 一からやり直しでフランス人のモデルを探していたが、思うようなモデルがいない。 丁度その時、キャンペーンの小冊子用モデルとしてパリに来ていたにが彼女だったのです。       眼の大きな女の子で小鹿みたいだな、というのが最初の印象です。 でも何か感じるものがあったので、今回は外国人ではなく日本人で行こうと彼女の起用をカネボウに提案しました。 この時は彼女が将来、自分の妻になるなとは夢にも思いませんでした。 私は既に最初の結婚をして子供もいましたから、彼女と付き合うことは全く頭になかったのです。 仕事が終わって再会したのは1年後です。 その後、彼女は女優として成功し、時々合うようになったのですが、それがマスコミに発覚してしまった。 会社に迷惑がかかると思った私は辞表をでしました。 個々の社長は良い人で、退社後も1年半、給与をくれました。              神奈川県逗子市のホテルに生活の拠点を移し、小説執筆や作詞を始める。          会社を辞め、妻と離婚話も持ち上がり、東京での清潔に疲れた私は故郷に帰ろうと東京駅に立っていました。 そこでふと関東の海を見たいと思ったのです。 それで逗子に行ったのがきっかけで、逗子なぎさホテルの支配人と知り合った。 支配人は出世払いでいいからとホテルの小さな部屋に居候させてくれました。 ここに7年間いた。 その間に妻とは正式に離婚しました。       ホテルにいる間、時間があったので日本の現代小説を読みあさった。 それで一度小説を書いてみようという気になり、3つ作品を書いて文学雑誌に応募しました。 このうち 「小説現代」 に出した 『皐月 (さつき)』 という作品が新人賞の最終候補に残った。 昔、父と母が山奥に七夕のササを取りに行き、父が崖から足を滑らせ、木に引っかかり、母が木こりに助けを求めに行ったという実話を、父と幼い息子に置き換えて書いたのです。 選考委員の一人からは 「明治、大正時代の副読本のような小説」 とこきおろされましたが、編集長は気に入ってくれ、落選作なのに雑誌に掲載してくれました。      小説を書く一方、頼まれるままに歌手のコンサート演出や作詞も始めました。 作詞を依頼してきたのは阿久悠さんのマネージャーだった人で、新米のもかかわらずピンク・レディーや岩崎宏美、近藤真彦の詩を手掛けた。 作詞では伊達歩という名を使いました。              84年に夏目雅子さんと結婚するが、新妻は1年後に死亡。 喪失感を乗り越え、昨夏の道を歩む。          あるところから雅子さんは仕事が終わると、なぎさホテルに来るようになりました。 茅ヶ崎や鎌倉にも行き、由比ガ浜にある寿司屋にもよく食べに行きました。 ここのご夫婦には大変お世話になり、結婚の時に仲人までしていただきました。 結婚後、鎌倉で生活を始めましたが、彼女の病気が発覚し、すぐに闘病生活に入った。 彼女が亡くなった後は前も言いましたが、途方に暮れる日々です。 酒とギャンブルに明け暮れ、重度のアルコール依存症にもなりました。      こんな私を見て母は絵を描いたらどうかと言いましたが、知り合いの編集者から小説の執筆を勧められ、少しずつ書き始めた。 最初に書いた 「三年坂」 が本いなり、90年には雅子さんとの闘病生活をもとに創作した 『乳房』 を出版。 それを出して、もうこれ以上のものは書けない。 これで小説を辞めると編集者に言ったら、吉川英治文学新人賞を受賞し、やめられなくなった。 今度はこれまでの人生を書いてくれと言われ、自叙伝的な 『海峡』 を出しました。      92年には野球の経験を生かして書いた 『受け月』 で直木賞をいただいた。 はたから見ると一見順調に見えるかもしれませんが、編集者に助けられ、つなぎつなぎ書いてきたというのが実感です。           と、4回目の紹介でした。 明日、最終回を紹介します。                 ツイートこの記事をつぶやく
       先週の日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに作家 伊集院静氏が取り上げられていのですが、ゴルフに出かけたり京都旅行に出かけたりしていたものですから紹介できなかった後半を紹介していきます。            高校卒業後に上京、立教大学に入学、野球部に入る。              父は私を自分の事業の後継にするつもりでした。 だから大学に入るなら経済学部がいいという考えだった。 母はいずれ帰ってきて後を継ぐのだから大学は美術でも音楽でもいい、好きなことをしなさいと言った。 そこで私は美術大学を目指し、授業が終わると、隣町まで石膏デッサンを習いに行きました。      ところが、その頃、私は一番上の姉が巨人の高橋明投手と結婚した。 一度野球を見に来なさいと誘われ、後楽園球場に試合を見に行った。 そこで長嶋茂雄さんに会ったのです。 長嶋さんは 「(自分の母校の) 立教に来なさいよ」 と誘ってくれ、バットとトレーナーを頂きました。 母の勧めで美術をやろうとしていた私は、満員の前でカクテル光線を浴びてプレーをしてる選手を見て、野球も良いなと思ったのです。 高校3年の冬に立教大学野球部のセレクションを受けることにしました。                           111122_115750        経済学部など4学部を受験しましたが、3学部は補欠で、文学部に行ってくれと言われました。 二つ返事で文学部に入ったのは女子学生がほとんどだったからです。 私が入った日本文学科は40人中、男は2人だけです。 入学すると野球部の寮に入り、野球漬けの生活が始まりました。 東京6大学の新人戦では4番を打った。 すぐにレギュラーになったのですが、1年後に野球肘になってしまった。 それで野球をあきらめました。              大学2年の時、進路を巡り遅々と対立。 その後、弟が海難事故で死亡する。          野球を退部した私に対し、父は大学を辞めて田舎に戻り、家業を継げと言い出しました。 説得のために帰京した私は 「親父が一代で事業を起こしたのだから、自分も一代で何かやる」 と後を継ぐのを拒否しました。 父は起こり、殴り合いのけんかになりました。 父は高校2年の弟に期待をかけ、医学部を目指すように言った。 総合病院を建てて経営させようと思ったのです。       その年の夏、弟は台風が近づく中、ボートを借りて沖に出て遭難した。 父は必死の救助活動をしましたが、嵐で捜索は難航、遺体が揚がるのは10日もかかった。 なぜ、弟はボートで沖まで行ったのか。 弟の死後、彼の日記を見ると、子供の頃、いじめに遭った自分を兄が助けてくれた感謝の思いがつづられていた。 その兄が嫌だというなら、自分が父の後を継ぐ。       ただ、医者になった後は父の許しを得て、冒険の旅に出たいと記されていた。 冒険家になりたかった弟は夏になるとボートで沖に出て、身体を鍛えていたのです。      弟の死で私は大きなショックを受けました。 そして私以外に父の後継はいなくなった。 でも家に帰ろうとは思いませんでした。 むしろ冒険家になりたかったという弟の遺志を継ぎ、私も自分のしたいことをしようと思いました。 父は仕送りをストップさせましたが、当時の東京にはいくらでも仕事があった。 横浜で荷揚げのアルバイトをして学費を稼ぎました。              大学卒業後、広告代理店に入社する。          以前、電通の人を知っていたので広告代理店も良いなと思って卒業後の5月にある会社を訪問しました。 その年の採用は終わっていましたが、偶然そこの社長が通りかかった。 「おまえ、身体が大きいな。 運動をやっていたのか」 と聞かれ、「野球を少し」 と答えました。 ちょうど翌週、どうしても勝ちたい会社対抗の試合があるので、それに出てみないかと言われました。 また社長の文章を清書してみろと文字も書かされました。 子供の頃、母から教わったので習字は得意です。 当時は韓国名を名乗っていたので 「日本人より字が上手いじゃないか」 と褒められ、野球の試合にも勝って採用が決まりました。        この会社に2年いて、その後はフリーで仕事をした。 この頃、ひょんなことから伊集院静と名乗ることになりました。 取引先の社長とプレゼンテーションに行く時、「趙君、今日はこう名乗ってください」 と示されたのがその名でした。 えっ、漫画みたいじゃないですかって抵抗したら、「はいからさんが通る」 という作品に伊集院という少尉が出てくるんです。 顧客に覚えてもらうにはこういう名前が良いんだと言われました。        これが、3回目のご紹介です。                 ツイートこの記事をつぶやく
       伊集院静氏が日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに紹介されて2回目の紹介です。             1950年2月、山口県防府市で生まれる。          私の本名は西山忠来。 当時はまだ日本に帰化していなかったから、趙忠来 (チョ・チュンレ) です。 上に姉が3人いました。 男の子がなかなか生まれず、母は女腹ではないかと言われていたから、私が生まれたときはうれしさのあまり泣いたそうです。 それを見たうちのお手伝いさんは 「坊ちゃんは生まれたときから女泣かせだった」 と言ったらしい。 家の前に出産のお祝いに来た人の自転車がずらりと並び、それが3日続きました。 父親は生まれてから3か月間は私を抱いて歩いたけれど、その後は一切の教育を母親に任せた。 忙しく、父親の無言の教育しか出来ない時代でした。      父は韓国の慶尚南道出身です。 13歳で片道切符を持たされて、門司 (福岡県) に着き、炭坑や荷揚げ労働者として働いた後、一台で海運や段ボールを経営する事業化になった。 母は三田尻 (山口県防府市) の塩田で働く労働者を束ねていた韓国人の娘で、街の韓国人では打たひとり女学校に行かせてもらった。 母は道を歩いている時に父に見初められたそうです。 当時の父は港で荷役の仕事をしていいて、結婚を許してもらうには1年半かかったと聞いています。       昨年出版した小説 『お父さんやオジさん』 で詳しく書きましたが、父は朝鮮戦争の時代に母の弟を助けるために単身海を越えて韓国まで出かけて行った人です。 戦後、母の家族は日本から祖国へと引き上げました。 ところが、あることから母の弟は北朝鮮のスパイをしたと容疑をかけられ、自宅の鳥小屋の下に掘った穴の中に隠れることになった。 母の実家から助けを求められた父は、無謀にも戦時下の海峡を渡り、義弟の救出に行ったのです。 この話を聞いた時、私はとてもできないと驚きました。              幼いころは体も小さく、よく泣く子でした。          母はどちらかと言うと放任主義でした。 幼稚園も1日行って面白くないと嫌がると、行かなくてもいいと言ってくれました。 当時の私は体が小さく、よく泣いていたそうです。 小学1年では身長が低く、前から3番目。 小学校に入る時は母から義務教育だから“今度は行かないとね”と諭され、読み書きも数の計算も日本人よりきちんとできなきゃいけない、と言われました。 でもそれが頭にしっかり入っていなかったらしく、最初の通信簿はオール1でした。 姉の一人はオール5を通した人だったから、母も私の通信簿を見てびっくりした。 成績はこの後も小、中、高とずっと悪かったですね。      小学校に入るころから、自分が日本人じゃないという自覚が芽生えました。 でも、強くなれと言われる一方で、放任主義でしたから、何か自分の中でバランスが取れないようなところがありました。 子供はやりたい放題だから、いじめにも遭った。 でも負けちゃいけないと、やり返した。 そのうち弟や妹もいじめられるようになったので、よく助けにも行きました。 両親からは日本人の悪口を言うなと言われました。 だから、いじめられた経験はこれまでほとんど話していません。              中学、高校は美術部と野球部に所属した。          小さい頃から絵を描くのが好きでした。 描きすぎて神経症になったこともあります。 転地療養のために母に瀬戸内海に浮かぶ小さな島に連れていかれました。 この時の体験が後に書いた小説 『機関車先生』 に生かさた。 絵は風景画や人物画も抽象画も描きました。 当時の高校の先生のところに十何点か油絵が残っています。      子供の頃、本はほとんど読まなかった。 でも母が詩吟が好きで、与謝野晶子の 「君死にたまふことなかれ」 や吉田松陰の辞世の歌を読んでくれました。 子供は意味が分からなくても体感みたいなものがあったのかもしれません。      野球は小学3年から始めました。 とにかく走るのが速かった。 体も中学、高校と進むうちに大きくなりました。 高校は山口県防府高校です。 甲子園出場を掛けた県大会では準決勝まで行ったことがありますが、私が打てなくて負けました。 私たちに勝った高校が甲子園進出です。 今度こそと思った次の県大会は1回戦で敗退。 もし、あのとき甲子園に出ていたら私の人生も大きく変わっていたでしょう。        と、2回目が紹介されています。  明日、3回目を紹介出来たらいたします。                  ツイートこの記事をつぶやく
       今日の日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーは作家の伊集院静氏の登場です。                「いねむり先生」 「なぎさホテル」 「作家の遊び方」--。 著作が次々に出版され、話題を集めた作家伊集院静さん(61)。 35万部のベストセラーになったエッセー 「大人の流儀」 では大人の男の本音をズバリ書いて、若者を叱咤激励している。          怒られるのが快感です。 なんて話を聞くと、勝手なものだなと思います。 何も特別なことを言っているつもりはない。 大体父親が肩身の狭い世の中というのが良くない。 一家の長と子供の夜のおかずが一緒ではまずい。 母親はは子供のためなら命をかけてもというけれど、それは当たり前のこと。 でも甘やかしたらいけない。 我慢を覚えさせないと。 私の家では父親と私たちの料理は違った。 おやじは一番働いていたし、いざとなれば家族を守れる。 それが当たり前だと思っていました。       私の父は13歳で朝鮮半島から日本に来て職業を転々としながら一代で事業を起こしました。 母も向こうで生まれ、日本で育った人です。 両親から良く言われたのは、お前は半島から来た親の子供だから、日本人よりも礼儀正しくなければならない、向こうの人は駄目だと言われないようにしなくてはならない、ということでした。 子供の頃、母と電車に乗った時、それまで普通に話していた母が急に小声になった。 母は公共ののりものでは大声を出したらいけないことぉみを持って私に示そうとしたのです。 これは一例ですが、私の考え方の根底には幼いころの両親の教えが有ると思います。              女優の妻、篠ひろ子さんの出身地、仙台に住む。 東日本大震災に遭い、被災者の一人として積極的に発言する。          ある日は仕事を始めようと思ったときに揺れがきた。 電気、ガス、水道が全部止まり、あっという間に夜が来た。 民家の明かりが消えたせいか、星がものすごくきれいでした。 人々が助けを求めている時なんでこんなに美しいのか。 神も仏もないじゃないかと言ったら、クリスチャンの妻が 「神様は何もしてくれないかもしれないが、どんな時もそばにいてくれる」 と言うんです。 そうか、そばにいてくれるだけでいいのかと教えられました。      私は自分で経験したから、よく分かるのですが、大きな悲しみに出会った人間は声をかけてもらったり、寄り添ってもらいたいものなのです。 東日本大震災で政府の対応が稚拙だと言われた。 色々ありますが、一つ言うと、なぜ政府はすぐに現地に復興本部を作らなかったのか。 政治家が東京からたまにやってきて 「頑張ってください」 では被災者に思いは伝わらない。 物事も敏速に進まない。 近くに本部が有れば、ちゃんとやってくれるという安心するんです。              女優の妻を失った男を主人公にした小説 「いねむり先生」 は絶望からの再生がテーマ。          この作品は前妻の夏目雅子さんを骨髄性白血病で失い、アルコール依存症になっていたころの体験がベースになっています。 209日間の入院中、私はずっと病院で彼女と一緒にいました。 必ず生還させるんだと思っていたから、亡くなった後は心に空白ができ、途方に暮れるという言葉の意味が初めて分かった。 どこかへ行ったらいいのか、何をしたらいいのか全く分からなかったものです。      今回の震災でもそういう人たちが大勢いるでしょう。 両親を失った少女が顔を洗う時、横でちゃんと吹きなさいと叱ってくれた母親はもういない。 これまではちょっとうっとうしいと思っていたかもしれないが、それが聞けなくなって初めて、少女は母親の叱る声が自分の生きていく多くな柱だったと気づくのです。       悲しみを和らげてくれるのは時間しかない。 でも悲しみが有るから、人は酔ったり、歌ったりしたとき、心から笑うことができる。 生きるということは悲しみそのもの。 でも悲しみを経験すると、人間には本当の優しさが身に付く。 そして悲しみにも終わりがやってくる。 小説は人の人生を変えることはできない。 でも読者の悲しみに寄り添うことはできる。 そんな作品を一つでも多く書いていきたいと思っています。          体験した人の話ってなんとなく説得力がある!?                    ツイートこの記事をつぶやく
       「何もしなければ何も始まらない」 をモットーにする。 添加物を使わない国産素材にこだわり、食品自給率向上に貢献しようという 「良い食の会」 の運動に力を入れる。          健康志向が高まる中、食の安心、安全に気を配る人が増えています。 ただ、自宅で食べるときは気配りをしていても、外で食事をするときはどのような食材が使われているかが良くわかりません。 その点は不安を感じている人も少なくないはずです。      そこで小売店や外食店を営む私たちが、安心・安全の国産素材で添加物や化学調味料を出来るだけ使わない商品や料理を提供しようと始めたのが 「良い食の会」 です。 山形県内の農業生産者やデリカ店、菓子店、旅館などの方々と共に、昨年7月に設立しました。 会員会社に共通する思いは 「伝統を守りつつ 『良い食』 をつくっていこう」 ということです。 鶴岡市内の店がモデル店になっています。      会のシンボルである緑の旗を掲げた台1号店は、昨年、鶴岡市の映画館に開設した、古き良き日本の食堂スタイルの直営店 「ヒラボク食堂 鶴岡まちキネ店」 です。 「敷居はなるべく低く、志は高く」 を基本に広く呼び掛ける中で、会に賛同してくれる店の和が山形県から東京、北海道、香川県などに広がってきました。 今では、全国に92社132店舗になりました。 当面は、全国の外食店舗のほぼ1%にあたる、約7000店に増やすことを目指しています。              ブランド豚育成のため飼料用米の活用に力を注ぐ一方、米や野菜など地場産や国産素材にこだわる。          食糧自給力の向上を目指しためにも、平田牧場の店舗では旬のモノや国産素材に徹底してこだわっています。 とんかつに付き物のキャベツや伝統野菜の平田ネギなど地場産品が手に入る時は使うようにしています。      外食店などで用いるコメも、新しい銘柄米として注目を集める山形産の 「つや姫」 にこだわっています。 お客様から 「おいしい」 という評価もいただいていますので。 食の安心・安全のために、外食店で使う食材の産地表示も積極的に進めていきたいと思います。            子どものころからずっと身近な存在だった豚への愛着は人一倍強い。          豚は本当にかわいいですね。 生きがいでもあり、私の生活とは切っても切り離せません。 日々豚に感謝しながら生きていきます。 豚肉は何よりも美味しくて健康的、しかも経済的な食材です。 朝はハムやソーセージ、昼はとんかつで夜はしゃぶしゃぶや焼き肉と3食豚を食べる日もあります。 飽きることは全くありません。      豚肉は和洋中と、どのような食とも相性が良い。 本当に素晴らしい動物性たんぱくです。 これからも 「牛より美味しい」 「豚作りに取り組むことで、社会に貢献していきたいと思っています。            東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方。 成長の基盤だった東北の復興、再生に貢献したいとの思いは熱い。          東北地方は日本の農水畜産業の重要な拠点です。 私たちの会社も東北の豊かな環境の中で育まれてきました。 東北は元気に再生できるように私たちも最大限の努力をしていく考えです。 そうした思いから、各店舗で売上高の1%を被災地への支援にあててもらう活動などをしてきました。 これからも出来る限りの支援活動を持続していきたいと思います。      地場企業として果たしべき大きな役割、過疎化が進む地域を守り、活性化していくために生き続けていきます。 豚の飼料となる飼料用米の生産量を拡大することで、食料自給率向上に寄与していきたい。       また 「日本一の豚作り」 を追求し続けることで、地域の雇用と需要を拡大していきたいと思っています。 豊かな自然に恵まれ、人が住みやすいこの地に土着し、この地から食文化の様々な情報を発信し続けていくことを夢見ています。        と、日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに平田牧場社長 新田嘉七氏が紹介されています。 今回で最終回となります。                    ツイートこの記事をつぶやく
Page 1 of 1612345»10...Last »