今日でシンガー・ソングッライター 杉田二郎氏をご紹介するのは4回目になります。        「戦争を知らない子供たち」 の大ヒットの後、北山修さんはロンドンに留学。 杉田さんが父を理解しようと1年間の宗教修行に励む。      2代目ジローズはテレビもラジオもでまくりで、家にも帰れない忙しさです。 ただ1年間限定のデュオなので1972年に解散。 森下次郎氏は大学に戻り、僕は事務所を設立してソロで 「人力ヒコーキのバラード」 などを作ります。 事務所にはオフコースもいて一緒に 「愛の子守唄」 も歌いました。       しかし、新譜を出しても売れない時期が来ます。 レコードビジネスの圧力を感じて音楽を楽しめないし、「戦争を知らない・・・・」 の決着もつかない。 悩んだ末、休もうと決断します。 宗教家の父の道と本気で向き合わなければならない、と。 74年春から岡山で修行生活に入りました。      修行中も 「事務所が大変です」 とスタッフやオフコースから手紙が来ます。 オフコースは実力もあるのにレコードが売れない。 僕は心が自然体に入って安らかな気持ちになっているから 「自分でやるしかないんだ、頑張れ」 とか 「早く一本立ちしろ」 とか、思えば突き放すような返事を書きました。 数ヵ月後、「やっと中野サンプラザが満員になりました」 と手紙を貰ったときは泣きましたね。      1年間の修行経て、親父は人生をかけて人々の悩みと接してきたんだと改めて尊敬の念を強く抱きました。 修行から戻ってくると事務所のみんなが立派になっている。 うれしかった。 さあ、ぼちぼち行動を起こすかと北山氏に手紙で 「何か始めたい」 と打診すると、「会えるチャンスがあれば作品を作ろう」 と返事が来す。        75年夏、ロンドンの北山氏を訪れ 「男どうし」 など多くの歌を共作。 秋の沖縄コンサートで呪縛から解放された。      「男どうし」 は北山氏と僕のことをそのまま歌った曲です。 シングルカットする一方、一緒に作った全曲を収録したアルバムが 「題名のない愛の唄」。 新たな第一歩で、自信にもつながりました。      その秋、沖縄のコザ(現沖縄市)でコンサートを開く機会があり 「新しい杉田を見てくれ」 という気持ちで舞台に向かいます。 沖縄の本土復帰3年。 フェンスの向こうに米軍がいて、ベトナム戦争の残り香も残っている。 逃げる気持ちがあったんでしょう。 「男どうし」 や 「風」 などを歌って喝采を浴びたけれど、本編には 「戦争を知らない・・・・」 入れませんでした。 しかし、アンコールの拍手を貰い、何も考えずに出て行ったら、自然とこの歌を歌っていた。       すると会場は大合唱です。 涙が止まりませんでした。 ようやく決着がついたと思いました。 北山氏には手紙で 「我々のメッセージが届いた」 と報告しました。        新境地を開いたのが 「ボーカリスト」 の道だ。      沖縄のコンサートを機に歌うことが本当に楽しくなりました。 「積木」 「八ヶ岳」 などがヒットする一方、ある日プロデューサーがフィリピンのフレディー・アギラという歌手の 「ANAK(息子)」 という曲が現地で一日に何度も流れていると言うニュースを持ってきます。 タガログ語で 「子供」 という意味で、親が子供を得た喜びや悪の道を進む息子を嘆く唄です。 心に響きました。 加藤登紀子さんも母親の立場から歌いましたが、僕もなかにし礼さんの日本歌詞で78年に歌い始めました。      カントリー&ウエスタンの大御所、ウィリー・ネルソンが80年頃、アメリカのスタンダード曲を集めた 「スター・ダスト」 を出したときも感動しました。 「杉田も自分の歌心で何でも歌ったら」 と言われていましたが、昔はオリジナルを作りたい気持ちが勝っていました。 でも、なにし礼作詞・宇崎竜童作曲の 「再会」(86年)でもボーカリストという新境地に立ちました。      僕も国を代表するような名曲を歌えたならと思っていた頃、歌謡界の巨匠、吉田正さんの作品を歌う企画が生まれたのです。 2千曲もある吉田作品のなかから、子供の頃から聞き覚えのある 「公園の手品師」 など10曲を選んだ 「ラブ・レター」(91年)です。 先生が 「君の表現で思うように歌うことが一番だよ」 と言ってくださったことがすごくうれしかった。      好きな歌を目の前にいる人に伝えたい。 そんな思いから80年9月から81年4月まで、全国138ヶ所のライブ 「全国138景歌祭り」 をやりました。 「ここが地球どまんなか」 ツアーです。(日経夕刊)                         ツイートこの記事をつぶやく