セブンイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏のご紹介も今日で4回目となります。       29歳のときに、弁当や惣菜の配送体制を抜本的に改革する担当となる。      1987年、鈴木敏文社長(当時)が全社に大号令をかけました。 「3便をやるぞ」。 当時の弁当や惣菜は専用工場から1日に2回配送していましたが、それを3便にするというのです。 弁当などの商品開発の仕事をしていたので、私は至急計画を立てるように指示が来ました。      工場から猛烈な反発が出ることは当然で、やったことの無い24時間フル稼働になるからです。 3便のメリットを説明し、納得してもらうしかありませんでした。 「我々は1日に3回食事をしています。 そのサイクルにあわせて鮮度の高い美味しい商品を届けることは理にかなっています。 今のままだといつまでたっても外食産業や家庭の味には勝てません」 とお願いする日々です。       3便体制だと朝食、昼食、夜ご飯の3色の生活シーンにふさわしいメニュー開発も求められます。 いろいろなところに目配りしながら仕事を一つ一つ積み上げていくことの楽しさも知りましたね。 美味しくなった商品は良く売れました。 工場の利益にも繋がり、従業員の給料も上がります。 時間が掛かりましたがやってよかったです。        ハワイへの赴任を命ぜられる。 現地の 「セブンイレブン」 の立て直しだった。      ハワイのお店はアメリカのサウスランド社(現セブンイレブン・インク)が運営していたのですが経営が芳しくなく、日本のセブンイレブンが89年に救済に乗り出したのです。 日本で商品開発、物流、店舗は衣鉢などいろいろな仕事を経験してきたからでしょう。 「君が、ちゃんとやってこい」 とハワイ勤務の辞令が下りました。 90年春のことです。 鈴木社長が 「進駐軍になるな。 一緒に汗を流せ。 お客様とマーケットを素直に見て、オペレーションを組み立てろ」 と言って、送り出してくれたのを覚えています。      ハワイのお店は、缶ビールなどを山積みしてディスカウントして売っていました。 商品を売って利益を得るというよりも、メーカーに売り場スペースを売ってもうける場所貸し業のようでした。 サンドイッチはお店で作り、品質はまちまち。 日本のように専用工場はありません。 「これは本当に位置から作り直さないといけない」 と思いましたよ。        日本のセブンイレブン流をハワイに導入するのに苦労する。      ますは、サンドイッチをつくってくれる工場探しから始めました。 何とか機内食の工場にレシピを持ち込んで作ってもらったら、わずか数ヶ月で取引が打ち切りになりました。 「注文数が少ない。 各店に配送していたら非効率で割に合わない」 の一点張り。 再び、振出です。 陳列棚も多様な商品が綺麗に入るように変更し、各店舗にあわせてレイアウトの設計をしました。       やはり、日本からやってきた人物は警戒されます。 その空気が分かったのはクリスマスパーティーでした。 「仕事は大変だけど、必ず実を結ぶよ」 と簡単にスピーチをして大空くなビートルズの 「オール・マイ・ラブング」 を歌うと、みんながステージに上げって大合唱となりました。 打ち解けた瞬間でした。      現場にやる気が出てきたのが手に取るように分かりました。 「イサカさん、売れる商品を発注するには時間帯別の販売動向を知らないと発注の精度が高まらない」。 この言葉を聞いたとき気づいたことがあります。 今、ハワイで取り組んでいることは日本のセブンイレブンが創業の頃から築き上げてきた業務・システムの設計思考に繋がっていることだったのです。 非常に貴重な経験でした。        ハワイの再生に手ごたえを感じ始めた頃、業績不振の本家アメリカのセブンイレブンを買収することを知る。      私がハワイで働いていた時にはすでに本国の救済が視野に入っており、ハワイで先遣隊として再生に着手し、その実績を基に本国の救済策を練ろうとしていたのかもしれません。 当時、アメリカでは 「もはやコンビには時代遅れ」 と言われていました。 しかし、どうでしょうか。 便利さを追求する本来の店づくりをしたことでアメリカも再生ができました。                           ツイートこの記事をつぶやく