日経夕刊の人間発見のコーナーにセブンーイレブン・ジャパン社長 井坂隆一氏の記事が掲載されていましたからご紹介します。        店舗面積が100平方メートル足らずのコンビニエンスストア。 1店1店の売上げを足すと年間4兆円近くになる日本の最大の小売業に上り詰めた。 おにぎり、お弁当、惣菜、プライベートブランド(PB=自主企画)商品などの開発に携わってきたのがセブンーイレブン・ジャパン社長の井坂隆一さんだ。      1号店を東京・豊洲に出店して今年40周年を迎え、その店は今も繁盛店として地域の人たちに親しまれています。 おかげさまで全国のセブンイレブンには年間で述べ65億人のお客様が来店され、おにぎりだけでも17億個も買っていただいています。 コンビには社会のインフラと呼ばれるようになり、その期待にこたえるように店舗運営、商品開発に取り組んでいきます。 今月、多くの地域で大雪に見舞われ、一部地域ではお客様にご迷惑をおかけしました。 自宅から一番近い店舗として食料品など生活必需品を絶やさないように生産、配送体制も万全を期していきます。      この世界に入って35年。 当時はコンビニと云う言葉がまだそれほど使われていませんでした。 只、夜中でもどこか温かい照明で人を迎えてくれるセブンイレブンに吸い込まれるように店内に入った記憶が残っています。 一人の消費者からこの会社に入り、いくつかの部署を経験し、経営を任される立場になった。       「コンビにだから・・・」 よいった妥協はしたくありません。 お客様には 「セブンイレブンだから美味しい。 良い品質だね」 といってもらえるまで、突き詰めていく姿勢を大切にしたいです。         東京生まれで、4歳のときに父親の転勤で大阪に住む。      関西弁が覚えられず、引っ込み思案な子供でした。 そのせいかテレビっ子になってしまいました。 証券会社に勤めていた父が帰宅が遅いのをいいことに 「鉄腕アトム」、戦争ドラマの 「コンバット」、濡れ衣を着せられて警察から追われながら真犯人を捜す 「逃亡者」 などを見るのが好きでした。 特撮テレビ 「怪獣マリンコング」 という番組も鮮明に覚えています。 まだ 「ウルトラQ」 や 「ウルトラマン」 が無かった時代です。       小学校に入って野球をやり始めてからは少しずつ関西に馴染んできたような気がします。 補欠でしたけど。 1964年(昭和39年)に阪神タイガースが劇的な逆転でセ・リーグ優勝を果たしたときに大阪にいたので、今でも阪神ファンです。 そもそもスポーツ用品などで野球帽を買おうとしても大阪では巨人の帽子はどこも売っていません。 阪神、近鉄、南海、阪急という関西の球団ばかりでしたね。      子供の頃は 「欽(きん)ちゃん」 と呼ばれていました。 お笑いコンビ 「コント55号」 がお茶の間を沸かせた時代です。 その一人、萩本金一さんはたれ目で、私もそうだったことから付いたあだ名です。         少年時代の祖父との交流が心に刻まれている。      小学校4年で東京に戻りました。 地元の野球チームに入りました。 ポジションはセカンド。 その頃から三重県伊勢市に住む父方の祖父から生活する上での心構えを聞かされるようになっていたのです。 父はそれなりの地位になっており 「おまえもしっかりしろ」 と。 よほど極楽とんぼのように見えたのかもしれませんね。      中学なると祖父から英語の手紙が来るようになりました。 「学校で英語を学んでいるからこれくらいは分かるだろう。 訳して、英語で返事をよこしなさい」      達筆な筆記体だったので読めなくて難議しましたよ。 辞書を手にしながら読むと、季節の移り変わりのことが書いてあり、「東京は暑いだろうから夏休みに遊びに来い」 といった内容でした。 孫の顔を見たかったのかもしれませんね。 確かに伊勢神宮近くを流れる五十鈴川は清流で、伊勢の隣の二見浦は絶好の海水浴場があり、楽しい思い出がいっぱいです。       大好きな祖父でしたが、父と子供である自分を比較されることに抵抗があったのは事実です。 いつしか、大人になって働くときには父の仕事とは遠い場所にいるだろうと思うようになっていた自分がいました。(日経夕刊)        明日、2回目のイッタビューをご紹介します。                          ツイートこの記事をつぶやく