2011,11,30

「俳句は人生を昇華する」  俳人  黛まどか氏

       日経新聞夕刊の 「人間発見」 のコーナーに俳人 黛まどか氏が月曜日から紹介され朝に月曜日分を紹介しましたが火曜日分を紹介します。              神奈川県湯川に生まれる。 父は俳人で 「春野」 主宰の黛執氏。          普通の子供でした。  111130_175036   本は嫌いだったんです。      小学校1年生のクリスマスの朝、枕元に少年少女文学全集が並んでいました。 腰が引けてしまって、とうとう読まずに6年生になってしまった。 その代わりに父に連れられて、野山を良く歩きました。 俳句を作ろうと思ったことはなかったのですが、万葉の歌など自然にそらんじていました。      うちは父の両親と一緒に暮らしていました。 母の実家も同じ湯河原にありました。 両父母とも畳の上でみとっています。 それを見て、死の壮絶さ、厳粛さを子供心に感じました。 命を大事にしなければと思いましたし、他の子供に比べて、死の意識が近いところにあったように思います。              1983年、フェリス女学院短大を卒業、富士銀行(現みずほ銀行)に。          銀行は向いていないと思っていました。 友達が銀行を受けるというので就職課にいっしょに行きました。 そこで 「黛さん、まだどこも受けていないじゃない。 富士銀行にもう一つ空きがあるから、一緒に説明会に行ったら」 と言われ、行ってみたら、その後面接があったんです。 趣味はと聞かれ、カラオケです。 おはこは。 松田聖子の 「白いパラソル」。 歌ってみますか。 振り付けで歌ちゃって。 その日、家で夕食を食べていたら 「内定しました」 と電話が。      他の興味の持てる仕事も見つからなかったので、そのまま就職しました。 今銀行にお勤めの方には申し訳ないですが。      新入行員研修が大変でした。 そろばん、札勘定をやるんです。 漢字のテスト以外は全部クラスでビリ。 グラフで成績が廊下に張り出されるのがつらかったです。       東京で初めて一人暮らしも始まりました。      研修は辛いし、毎日帰って泣きながら母に電話して母も 「辞めて帰ってきたら」。 そうしたら1カ月の電話代が初任給よりも高くついた。 いつまでもこのままではいけない、と覚悟を決めました。       結局3年間勤めました。 祖母に石の上にも三年と言われて育ちましたから、3年は頑張らないと、と。 でも、頑張ったのは銀行の方だ、とよく言われます。      行内の冊子にエッセーを書かないかと言われ、軽い気持ちで書いたことがあります。 その時、同じ部署に文学新人賞を取って銀行員の傍ら小説を書いていた方がいて、その方から 「君の文章読んだよ。 すごくリズムがあってよかった。 きっと将来文章を書く仕事をするといいよ」 と言われ、その言葉通りになりました。              銀行を辞め、テレビのリポーターに。 俳句との出会いも。          「遠くへ行きたい」 という番組で、北九州に俳人、杉田久女の足跡をたどりました。 俳句を作り始めたのは、その頃でした。      久女が神がかったように登った英彦山に登りました。      久女の句に 「谺(こだま)してやまほとゝとぎすほしいまゝ」があります。 下五の 「ほしいまゝ」 がでるまで英彦山に通い詰め、ある時夜中に 「ほしいまゝ」 が浮かんだそうです。              93年、病魔に襲われ、半年間、闘病する。          ある日突然全身に痛みが走り、肝臓の数値が3桁まで上がりました。 原因が分からない、A型もB形もC型も出てこない。 原因が分からなくてF型慢性肝炎と診断されました。      出来るだけ動かない方がいい、と言われたんです。 動けば動くほど肝硬変になる時期が早くなって寿命が短くなる。 若かったから、やりたいこともたくさんあり、人生が半分終わったように思えました。      ところが半年後に数値が突然下がり、抗体が出来たんです。 結局、風邪の菌が肝臓と末梢神経に入ってしまったことがわかり、間もなく完治しました。 病床でたくさんの俳句を詠みましたし、古今東西の俳句に日々励まされ、癒されました。 俳句に支えられた闘病でした。      <春隣病めるときにも爪染めて>        と、紹介されています。  人には歴史があるんだと感じますね!                        ツイートこの記事をつぶやく