2011,11,24

「悲しみに寄り添う小説」  作家  伊集院静氏

       今回で日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに紹介されて4回目になります。           1977年、科商品会社のキャンペーンに夏目雅子さんを起用。          彼女と初めて会ったのはパリです。 当時私は広告制作会社のディレクターで、カネボウ化粧品の夏のキャンペーンの制作に当たっていました。 フランス人男優のジャン=ポール・ベルモンドを女性化粧品に起用するユニークな企画だったのですが、詐欺まがいのトラブルに巻き込まれ、頓挫しました。 一からやり直しでフランス人のモデルを探していたが、思うようなモデルがいない。 丁度その時、キャンペーンの小冊子用モデルとしてパリに来ていたにが彼女だったのです。       眼の大きな女の子で小鹿みたいだな、というのが最初の印象です。 でも何か感じるものがあったので、今回は外国人ではなく日本人で行こうと彼女の起用をカネボウに提案しました。 この時は彼女が将来、自分の妻になるなとは夢にも思いませんでした。 私は既に最初の結婚をして子供もいましたから、彼女と付き合うことは全く頭になかったのです。 仕事が終わって再会したのは1年後です。 その後、彼女は女優として成功し、時々合うようになったのですが、それがマスコミに発覚してしまった。 会社に迷惑がかかると思った私は辞表をでしました。 個々の社長は良い人で、退社後も1年半、給与をくれました。              神奈川県逗子市のホテルに生活の拠点を移し、小説執筆や作詞を始める。          会社を辞め、妻と離婚話も持ち上がり、東京での清潔に疲れた私は故郷に帰ろうと東京駅に立っていました。 そこでふと関東の海を見たいと思ったのです。 それで逗子に行ったのがきっかけで、逗子なぎさホテルの支配人と知り合った。 支配人は出世払いでいいからとホテルの小さな部屋に居候させてくれました。 ここに7年間いた。 その間に妻とは正式に離婚しました。       ホテルにいる間、時間があったので日本の現代小説を読みあさった。 それで一度小説を書いてみようという気になり、3つ作品を書いて文学雑誌に応募しました。 このうち 「小説現代」 に出した 『皐月 (さつき)』 という作品が新人賞の最終候補に残った。 昔、父と母が山奥に七夕のササを取りに行き、父が崖から足を滑らせ、木に引っかかり、母が木こりに助けを求めに行ったという実話を、父と幼い息子に置き換えて書いたのです。 選考委員の一人からは 「明治、大正時代の副読本のような小説」 とこきおろされましたが、編集長は気に入ってくれ、落選作なのに雑誌に掲載してくれました。      小説を書く一方、頼まれるままに歌手のコンサート演出や作詞も始めました。 作詞を依頼してきたのは阿久悠さんのマネージャーだった人で、新米のもかかわらずピンク・レディーや岩崎宏美、近藤真彦の詩を手掛けた。 作詞では伊達歩という名を使いました。              84年に夏目雅子さんと結婚するが、新妻は1年後に死亡。 喪失感を乗り越え、昨夏の道を歩む。          あるところから雅子さんは仕事が終わると、なぎさホテルに来るようになりました。 茅ヶ崎や鎌倉にも行き、由比ガ浜にある寿司屋にもよく食べに行きました。 ここのご夫婦には大変お世話になり、結婚の時に仲人までしていただきました。 結婚後、鎌倉で生活を始めましたが、彼女の病気が発覚し、すぐに闘病生活に入った。 彼女が亡くなった後は前も言いましたが、途方に暮れる日々です。 酒とギャンブルに明け暮れ、重度のアルコール依存症にもなりました。      こんな私を見て母は絵を描いたらどうかと言いましたが、知り合いの編集者から小説の執筆を勧められ、少しずつ書き始めた。 最初に書いた 「三年坂」 が本いなり、90年には雅子さんとの闘病生活をもとに創作した 『乳房』 を出版。 それを出して、もうこれ以上のものは書けない。 これで小説を辞めると編集者に言ったら、吉川英治文学新人賞を受賞し、やめられなくなった。 今度はこれまでの人生を書いてくれと言われ、自叙伝的な 『海峡』 を出しました。      92年には野球の経験を生かして書いた 『受け月』 で直木賞をいただいた。 はたから見ると一見順調に見えるかもしれませんが、編集者に助けられ、つなぎつなぎ書いてきたというのが実感です。           と、4回目の紹介でした。 明日、最終回を紹介します。                 ツイートこの記事をつぶやく