スマートフォンで気軽にどこでもポイントを貯めることができるサービス 『ポイントライフ』 が本日リリースしました。 本サービスは社名変更したばかりのVOYAGE GROUPが運営するスマートフォン専用のサービス。
ポイントライフ内のお店で買い物をすると、購入金額に応じたポイントが貯まる仕組みだ。 貯まったポイントはPeXポイントに交換し、次の一覧電子マネーに交換できる。
・ゆうちょ銀行
・MIZUHO
・ジャパンネット銀行
・住信SBIネット銀行
・ANA
・JAL
・Edy
・楽天銀行
・アマゾンギフト券
・Suica
・WebMoney
・TSUTAYA DISCAS
・nanaco
・ Yahooポイント
・waon
・JTB
この日このサービスを説明してくれたのはVOYAGE GROUP ECナビ事業本部 中山理香氏。 ポイントは会員に発行されるデイリーアンケートに答えたりゲームを遊ぶ事でも貯めることができる(アンケートの受け取りは設定可能)。 そのほか、SNSとの連動やアクションに応じて獲得できるスタンプでユーザーのモチベーション向上を目指しているという。 すでにコラボレーション企画も始まっておりら 『サラリーマンNEO劇場版(笑)』 のレアスタンプ も獲得できる。
『ポイントライフ』 アプリについて聞いてみたところAppleはポイント制度について厳しいため、リリースしてもAndroid版が先になるとのことだ。 いつでも持ち歩いてるスマートフォンでポイントを貯めそれを上記の電子マネーと交換。 スタンプやゲーム、アプリのダウンロードでどんどんポイントを貯めていこう。
既にサービスインした 『ポイントライフ』 は下記のURLから登録することができる。 (getnews.jp)
こちらか ポイントライフ
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2011,11,24
11月25日にアップルがまた何かを画策しているようです。


2011,11,24
大学1年「採用」、卒業と同時に店長 ユニクロの新方式で就活に変化。
カジュアル衣料大手の 「ユニクロ」 を展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、従来の慣行にとらわれない新たな採用方法を考えている。
具体的には、「大学1年生の時点で採用を決め、在学中は店舗でアルバイトをしてもらい、卒業と同時に店長にする」 といった方法を想定していて、大学生の新卒一括採用に 「風穴」 を開けることになる。
ファーストリテイリングは大卒採用について現在、国内では年1回の採用選考を行っている。 これを見直し、2013年春以降の入社組から適用する方向で検討している。
新しい方法は、採用時期を通年とし、選考する学年も問わない方式だ。 柳井氏は朝日新聞のインタビューで、「一括採用だと同じような人ばかりになる。 1年生の時からどういう仕事をするか考えて、早く決められる方がいい」 と話している。
同社は、「大学1年生ということが強調されているが、ファーストリテイリングという会社で、本当に働きたいと考えている人がいるのであれば、早くからじっくりと働いてもらったほうが、仕事を身につけてもらううえでもよいと考えているということです」 とし、優秀な人材を確保するために 「人材を囲ってしまおうというものではありません」 と話した。
いわゆる 「第2新卒」 を含めて、既卒者でも就活に励んでいる人が増えている半面、新卒の解禁日が決められ、そのスケジュールにあわせて採用選考を進めている現在の採用方法では「門戸が狭く、選考の仕方も硬直化していてよくない」と考えているようだ。
また、大卒採用では海外の大学が9月に新学期を迎えるため、国内選考で海外の大学を卒業した日本人や、外国人を採用しようとすると、入社時期が半年ほどズレ込むことになる。 そういった事情に配慮する狙いもある。
一方、ファーストリテイリングの2011年8月期決算は、売上高が前期比0.7%増の8203億円と過去最高だったが、営業利益は12.1%減の1163億円、純利益も11.9%減の543億円と落ちた 。中国や欧州など海外事業が好調に推移したものの、業績の足を引っ張ったのは売上げの7割超を占める国内事業で、4年ぶりの減益となった。
それに伴い、柳井会長兼社長は役員報酬を3億円から半分の1億5000万円に減らしてもいる。 曲がり角の国内市場に代わって、収益確保を狙うには海外事業を強化するしかない。
同社は 「ユニクロ」 の海外出店を強め、それに伴う現地採用を増やしていて、2011年の新卒社員の3分の2が外国人だ。 国内の大卒採用枠はこれまで通り250~300人程度と変えないが、外国人社員の割合は 「2~3年後には4分の3を外国人が占める」 という。
ファーストリテイリングは 「まずは国内採用について見直すが、将来的には国内外とも同じ仕組みで採用できればいい」 と話している。 (j-cast.com)
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2011,11,24
ポルシェ、911カレラカブリオレの受注開始。


2011,11,24
docomo 「iモード」の成功と失敗。
夏野剛氏が、ツイッターで怒っている。
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インターネット業界からドコモに行き、さんざん苦労して世界でも例のないインターネット型携帯サービスを立ち上げたのに、尊敬する方から否定発言されると言うのは本当に悲しい。 少なくとも2000年代前半にiPhoneは作れなかった。 GoogleもAppleもさんざん日本を研究して作った。これは孫正義氏の次のコメントに対する反論だ。
いわゆるiモードというのはインターネットじゃないんですよ。 一般のインターネットがさくさくとブラウジングできるようなものでなく、囲い込まれた特殊な画面サイズの特殊なアプリの世界です。「いわゆるインターネット」 の定義にもよるが、iモードはHTTPとHTMLで普通のブラウザからも見えるので、インターネットに入る。 せめて 「標準的なHTMLではない」 ぐらいだろう。 これはiモードのできた1999年ごろの端末の能力ではやむをえない機能制限だった。 それを回線交換のガラケーと一緒くたにするのは、夏野氏が怒るのも当然だ。 iモードは、世界のビジネススクールでも 「オープン・イノベーション」 の成功例として教えられる、数少ない日本のイノベーションである。 拙著 『イノベーションとは何か』 から引用しておこう。
ガラケーの生み出した最大のイノベーションが、NTTドコモの「iモード」である。携帯電話の端末でデータ通信を行うという発想は、かなり前からあり、1998年にエリクソン、ノキア、モトローラなどによって 「WAPフォーラム」 が発足して国際標準化が始まった。 しかし、参加するメーカーや通信業者の数が増えるにしたがって内部対立が表面化し、標準化の作業は難航して、正式バージョンはなかなかできなかった。
ドコモでも、1997年からDoPaというパケット通信サービスが行われたが、これはパソコンにつないでドコモ専用のネットワークに接続しなければ使えないため、まったく振るわなかった。これをもっと手軽にし、携帯端末だけでインターネットに接続できるようにしようというのが当初のiモードの発想だったが、テンキーでデータ通信をするのは無理だという消極論が社内にも強かったという。 そこで 「だめでもともと」 ということで、榎啓一氏(ゲートウェイビジネス部長)が松永真理氏(企画室長)や夏野剛氏(戦略担当部長)などの外部の人材を起用し、コンテンツも「インターネットによりかかり」(榎部長)にした。 当初はドコモがコンテンツをすべて購入して管理する方式が想定されていたというが、「外人部隊」が反対したたため、ウェブ型のオープンなモデルになった。 WAPが携帯端末の限られた能力で普通のウェブサイトなみの機能を実現しようとしてデータを圧縮し、携帯端末用に最適化した言語WMLを開発したのに対し、iモードはドコモ独自のパケットで伝送し、中央のゲートウェイでTCP/IPに変換して、HTTPやHTMLなどのインターネット標準をそのまま使う方式だ。 これはドコモの電話網でインターネットのエミュレーション(模擬動作)をやっているので伝送効率は低く、機能も限られている。 ところが、iモードはドコモだけで規格が決められるため、どんどんサービスを始めたのに対して、WAPの標準化が遅れたため、ドコモ以外の各社はそれぞれ独自の「WAPもどき」の方式でサービスを始めざるをえなかった。 その結果、国際標準であるはずのWAPがかえってばらばらになり、標準化をほとんど考えない 「NTT規格」 だったiモードが事実上の国内標準となった。2001年に発表されたWAP2.0はiモード互換となり、実質的にドコモの規格が国際標準となった。 この明暗を分けた決定的な要因は、iモードをサポートする 「勝手サイト」 が大量に出現したことだ。 WAPで読めるようにするには、WMLで書き、特殊なWAPサーバを使わなければならなかったのに対して、iモードのコンテンツはコンパクトHTML(簡略化したHTML)で書いて普通のウェブサイトに置くだけでよいため、だれでも自分のホームページから情報を発信でき、勝手サイトは爆発的に増えた。 iモードの成功はいろいろな偶然の重なった結果、NTTの資金力や技術力とインターネットの自由さがうまく結びついた 「奇蹟」 のようなもので、意識的にまねようとしてもうまく行くとは限らないが、その教訓は明らかだ。 通信業者がコントロールしないで自由に作らせることによって多様なオープン・イノベーションが生まれ、それがさらに多くのコンテンツを生み出す・・・という好循環が回り始めればサービスは広がるのだ。(pp.77-8)ただし、そのあとが続かなかった。 この原因は夏野氏によれば、海外のキャリアを買収してiモードのサービスを行なう決断が当時の経営陣にできなかったためだという。 私は逆に無料でライセンスして拡大すべきだったと思うが、いずれにせよ後の祭りである。 夏野氏のような 「異分子」 がいなくなると、ドコモは昔のNTTに戻ってしまった。 (ikedanobuo.livedoor.biz)

2011,11,24
スマートフォンを持つ理由、持たない理由。


2011,11,24
「悲しみに寄り添う小説」 作家 伊集院静氏
今回で日経夕刊 「人間発見」 のコーナーに紹介されて4回目になります。
1977年、科商品会社のキャンペーンに夏目雅子さんを起用。
彼女と初めて会ったのはパリです。 当時私は広告制作会社のディレクターで、カネボウ化粧品の夏のキャンペーンの制作に当たっていました。 フランス人男優のジャン=ポール・ベルモンドを女性化粧品に起用するユニークな企画だったのですが、詐欺まがいのトラブルに巻き込まれ、頓挫しました。 一からやり直しでフランス人のモデルを探していたが、思うようなモデルがいない。 丁度その時、キャンペーンの小冊子用モデルとしてパリに来ていたにが彼女だったのです。
眼の大きな女の子で小鹿みたいだな、というのが最初の印象です。 でも何か感じるものがあったので、今回は外国人ではなく日本人で行こうと彼女の起用をカネボウに提案しました。 この時は彼女が将来、自分の妻になるなとは夢にも思いませんでした。 私は既に最初の結婚をして子供もいましたから、彼女と付き合うことは全く頭になかったのです。 仕事が終わって再会したのは1年後です。 その後、彼女は女優として成功し、時々合うようになったのですが、それがマスコミに発覚してしまった。 会社に迷惑がかかると思った私は辞表をでしました。 個々の社長は良い人で、退社後も1年半、給与をくれました。
神奈川県逗子市のホテルに生活の拠点を移し、小説執筆や作詞を始める。
会社を辞め、妻と離婚話も持ち上がり、東京での清潔に疲れた私は故郷に帰ろうと東京駅に立っていました。 そこでふと関東の海を見たいと思ったのです。 それで逗子に行ったのがきっかけで、逗子なぎさホテルの支配人と知り合った。 支配人は出世払いでいいからとホテルの小さな部屋に居候させてくれました。 ここに7年間いた。 その間に妻とは正式に離婚しました。
ホテルにいる間、時間があったので日本の現代小説を読みあさった。 それで一度小説を書いてみようという気になり、3つ作品を書いて文学雑誌に応募しました。 このうち 「小説現代」 に出した 『皐月 (さつき)』 という作品が新人賞の最終候補に残った。 昔、父と母が山奥に七夕のササを取りに行き、父が崖から足を滑らせ、木に引っかかり、母が木こりに助けを求めに行ったという実話を、父と幼い息子に置き換えて書いたのです。 選考委員の一人からは 「明治、大正時代の副読本のような小説」 とこきおろされましたが、編集長は気に入ってくれ、落選作なのに雑誌に掲載してくれました。
小説を書く一方、頼まれるままに歌手のコンサート演出や作詞も始めました。 作詞を依頼してきたのは阿久悠さんのマネージャーだった人で、新米のもかかわらずピンク・レディーや岩崎宏美、近藤真彦の詩を手掛けた。 作詞では伊達歩という名を使いました。
84年に夏目雅子さんと結婚するが、新妻は1年後に死亡。 喪失感を乗り越え、昨夏の道を歩む。
あるところから雅子さんは仕事が終わると、なぎさホテルに来るようになりました。 茅ヶ崎や鎌倉にも行き、由比ガ浜にある寿司屋にもよく食べに行きました。 ここのご夫婦には大変お世話になり、結婚の時に仲人までしていただきました。 結婚後、鎌倉で生活を始めましたが、彼女の病気が発覚し、すぐに闘病生活に入った。 彼女が亡くなった後は前も言いましたが、途方に暮れる日々です。 酒とギャンブルに明け暮れ、重度のアルコール依存症にもなりました。
こんな私を見て母は絵を描いたらどうかと言いましたが、知り合いの編集者から小説の執筆を勧められ、少しずつ書き始めた。 最初に書いた 「三年坂」 が本いなり、90年には雅子さんとの闘病生活をもとに創作した 『乳房』 を出版。 それを出して、もうこれ以上のものは書けない。 これで小説を辞めると編集者に言ったら、吉川英治文学新人賞を受賞し、やめられなくなった。 今度はこれまでの人生を書いてくれと言われ、自叙伝的な 『海峡』 を出しました。
92年には野球の経験を生かして書いた 『受け月』 で直木賞をいただいた。 はたから見ると一見順調に見えるかもしれませんが、編集者に助けられ、つなぎつなぎ書いてきたというのが実感です。
と、4回目の紹介でした。 明日、最終回を紹介します。
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