2011,11,15

「悲しみに寄り添う小説」  作家 伊集院静氏

       伊集院静氏が日経夕刊の 「人間発見」 のコーナーに紹介されて2回目の紹介です。             1950年2月、山口県防府市で生まれる。          私の本名は西山忠来。 当時はまだ日本に帰化していなかったから、趙忠来 (チョ・チュンレ) です。 上に姉が3人いました。 男の子がなかなか生まれず、母は女腹ではないかと言われていたから、私が生まれたときはうれしさのあまり泣いたそうです。 それを見たうちのお手伝いさんは 「坊ちゃんは生まれたときから女泣かせだった」 と言ったらしい。 家の前に出産のお祝いに来た人の自転車がずらりと並び、それが3日続きました。 父親は生まれてから3か月間は私を抱いて歩いたけれど、その後は一切の教育を母親に任せた。 忙しく、父親の無言の教育しか出来ない時代でした。      父は韓国の慶尚南道出身です。 13歳で片道切符を持たされて、門司 (福岡県) に着き、炭坑や荷揚げ労働者として働いた後、一台で海運や段ボールを経営する事業化になった。 母は三田尻 (山口県防府市) の塩田で働く労働者を束ねていた韓国人の娘で、街の韓国人では打たひとり女学校に行かせてもらった。 母は道を歩いている時に父に見初められたそうです。 当時の父は港で荷役の仕事をしていいて、結婚を許してもらうには1年半かかったと聞いています。       昨年出版した小説 『お父さんやオジさん』 で詳しく書きましたが、父は朝鮮戦争の時代に母の弟を助けるために単身海を越えて韓国まで出かけて行った人です。 戦後、母の家族は日本から祖国へと引き上げました。 ところが、あることから母の弟は北朝鮮のスパイをしたと容疑をかけられ、自宅の鳥小屋の下に掘った穴の中に隠れることになった。 母の実家から助けを求められた父は、無謀にも戦時下の海峡を渡り、義弟の救出に行ったのです。 この話を聞いた時、私はとてもできないと驚きました。              幼いころは体も小さく、よく泣く子でした。          母はどちらかと言うと放任主義でした。 幼稚園も1日行って面白くないと嫌がると、行かなくてもいいと言ってくれました。 当時の私は体が小さく、よく泣いていたそうです。 小学1年では身長が低く、前から3番目。 小学校に入る時は母から義務教育だから“今度は行かないとね”と諭され、読み書きも数の計算も日本人よりきちんとできなきゃいけない、と言われました。 でもそれが頭にしっかり入っていなかったらしく、最初の通信簿はオール1でした。 姉の一人はオール5を通した人だったから、母も私の通信簿を見てびっくりした。 成績はこの後も小、中、高とずっと悪かったですね。      小学校に入るころから、自分が日本人じゃないという自覚が芽生えました。 でも、強くなれと言われる一方で、放任主義でしたから、何か自分の中でバランスが取れないようなところがありました。 子供はやりたい放題だから、いじめにも遭った。 でも負けちゃいけないと、やり返した。 そのうち弟や妹もいじめられるようになったので、よく助けにも行きました。 両親からは日本人の悪口を言うなと言われました。 だから、いじめられた経験はこれまでほとんど話していません。              中学、高校は美術部と野球部に所属した。          小さい頃から絵を描くのが好きでした。 描きすぎて神経症になったこともあります。 転地療養のために母に瀬戸内海に浮かぶ小さな島に連れていかれました。 この時の体験が後に書いた小説 『機関車先生』 に生かさた。 絵は風景画や人物画も抽象画も描きました。 当時の高校の先生のところに十何点か油絵が残っています。      子供の頃、本はほとんど読まなかった。 でも母が詩吟が好きで、与謝野晶子の 「君死にたまふことなかれ」 や吉田松陰の辞世の歌を読んでくれました。 子供は意味が分からなくても体感みたいなものがあったのかもしれません。      野球は小学3年から始めました。 とにかく走るのが速かった。 体も中学、高校と進むうちに大きくなりました。 高校は山口県防府高校です。 甲子園出場を掛けた県大会では準決勝まで行ったことがありますが、私が打てなくて負けました。 私たちに勝った高校が甲子園進出です。 今度こそと思った次の県大会は1回戦で敗退。 もし、あのとき甲子園に出ていたら私の人生も大きく変わっていたでしょう。        と、2回目が紹介されています。  明日、3回目を紹介出来たらいたします。                  ツイートこの記事をつぶやく