2011,10,29

「言葉、この危険なるこの」 コピーライター  糸井重里氏。

       日経夕刊 「人間発見」 のコーナーの糸井重里氏の紹介は4回目になります。  “ねるほどね” って感じますよ!             1997年インターネットと出合う。 その年の誕生日、49歳で初めてパソコンを購入し翌年 『ほぼ日刊イトイ新聞』、通称 『ほぼ日』 を立ち上げる。          これだと、思いました。 ものを考える人やつくる人が、メディアやスポンサー抜きで消費者と直接つながれる。 普通の人たちが地位や立場と関係なく、趣味などの情報をタダで分かち合っている。 対等で自由。 ここに新しい 『  』 をつくろう、と決心しました。      広告屋だった自分とはお別れです。 しばらくは厳しいぞ、と覚悟しました。 もちろん一人ではできません。 都心の事務所をたたみ、やや不便な場所の一軒家を借りました。 風呂もあり寝泊まりできる職住一体体制。 学園祭のようでわくわくしたことを思い出します。      文字中心だから分かりやすく 「新聞」 と名付け、有名、無名を問わず面白い人に原稿を書いてもらうことにしました。 ただし原稿料を払う余裕は全くありません。 「タダだけど自由にかけますよ」 と口説いて回ったものです。      有る専門家には 「古い」 「今さら」、別の専門家には 「早すぎる」 と言われました。 軌道に乗ったと思ったのは読者が3万人を超えたとき。 これで何でもできるぞ、と思いました。 満員の野球場で僕らがどんな試合をするか、3万人が観客席から見ている。 いい試合をすればきっと応援してくれるはず。 苦労ではなく、楽しみで共感して欲しい。 そう考えました。              連載をまとめた本や生活雑貨の制作・販売を始め、収益源に。 中でも 「ほぼ日手帳」 は年間35万部を売っるヒット商品に育つ。          頼まれ仕事ではないものづくりの面白さを知りました。 企業の広告は100万人単位で考えていた。 お金もかけ、仕掛けも大きい。 でも霧のような100万人より、わざわざ 「ほぼ日」 を読みに来てくれる3万人が僕にとってうれしいんだっと分かりました。 言葉が届き、うれしそうに笑っている様子が目に浮かぶんです。 自分の仕事を見ていてくれる人がいる。 そのことの意味が初めて、泣きたいくらいに分かりました。      商品企画の出発点はすべて、自分たちが欲しいもの。 読者の声を聞いて改良を重ね、製作過程はすべてネットの載せます。 第1号のTシャツは原価も公開しました。 僕たちと使ってくれる人が一つのチームだと思っています。 もっとお客さんと親しくなれるにはどうすればいいか、と常に考えます。      対等な関係でありたいから 「お客様は神様」 とは考えません。 取引先も同じ。 揉み手で平身低頭したり、土下座したりたたき売りしたりはしないと社内でも言っています。 揉み手や土下座は言葉ではない。 言葉で人と人としての関係を築いていきたいんです。      手帳を作った時、銀座の老舗の文具店に置いてくれるように頼みに行ったら 「実績のないメーカーはお断り」 と言われ、泣いたことも。 別の生活雑貨チェーン店が 「ぜひ」 と言ってくれ、いまはそのチェーンで売れ筋トップです。          事務所は社員40人、売上高20億円を超す会社になった。          自分が 「経営者」 になるとは思わず生きてきました。 だから役職も部署もなく席替えはくじ引き。 発案者が周りを巻き込んで商品化するまで責任を持ちます。 プレゼンテーションが上手である必要はありません。 直接話し、一緒に仕事をすれば分かりますから。 資料作りが仕事だと思われてはたまらない。 逆に、熱中し過ぎる人は上手に邪魔するのも僕の役目です。       頑張る村、地域共同体のイメージですね。 いろいろな人がいて、軽口をたたきつつ認め合い、大衆的な倫理を守って暮らす江戸の長屋が理想なんです。 会議では他人の提案への悪口は禁止。 対案が無いならせめてヨーモアのある発言を、と言っています。 皆で自由にアイデアを出し合い、楽しさや豊かさという価値を増やしていくのが 「ほぼ日」 のやり方です。 会社が 「管理」 を中心に動くようになったら寿命ですね。 ものを生む力や熱が無くなった証拠ですから。      いままでの資本主義や会社経営とはちょっと違うあり方が気になるのでしょうか。 最近のビジネス系の取材が増えています。 昔 「話の特集」 など、小さくても影響力のある雑誌がいくつもありました。 そんな会社を目指すのも良いと思い始めました。        明日は、5回目をご紹介します。               ツイートこの記事をつぶやく