2011,10,28

「言葉、この危険なるもの」  コピーライター  糸井重里氏。

       本来なら昨日紹介しないといけなかった日経夕刊の人間発見に紹介されていた糸井重里氏をアップ予定でしたが・・・ ((’ェ’o)┓ペコ  アップします。            ミノルタ 『今の君はピカピカに光って』、新潮文庫 『想像力と数百円』、日産自動車 『くう ねる あそぶ』。 1980年代、糸井重里の作品は世を席巻する。 中でも注目されたのは 『不思議、大好き。』  『おいしい生活』 などセゾングループの仕事。 コピータイターという職業の人気も急上昇した。               111028_114535  西武百貨店の会議には代表の堤清二さんが出席し、自分の言葉で方針や判断を語っていました。 経営者となった今、手本にしています。 社会学の用語が飛び交い、学校のようでもありました。      コピーライターは消費者代表。 企業側の人間ではない。 どの仕事もそういうつもりで臨みました。 広告を作る時多くの企業は 「強い言葉」 を求める。 僕は自分のフィルターを通して 「強い言葉は嫌」 だと押し返す。 消費者の楽しさ、面白しろさを最大にしたいんです。 コピーライターとはそういう役回りだと思っています。      NHK 「YOU」 の司会や作詞、小説、商品開発など、広告以外の仕事でも 「職業・コピーライター」 と必ず入れました。 消費者の楽しみをお手伝いするのがコピーライター。 器と可能性は大きい。 ここまでできるんだ、というキャンペーンのつもりでした。 消費者が喜び広告を先に作り、それに合わせて商品を開発するという試みに挑んだこともあります。              バブル景気の真っただ中でる88年、西武百貨店向けに書いたのが 『ほしいものが、ほしいわ。』 というコピーだった。          「もう買いたいものはない」 と思っている自分に気付いたんです。 「欲しいものはもうない。 しかしいいものがあれば買うよ」。 そんな二つの気持ちを一つの言葉に込め、消費者の代表として企業に宣言したんです。 宣言といっても集団ではなく、個人のつぶやき。 それを最後に 『  』 で表しました。      広告としては観念的で、社会に問いかけるのは早すぎっると分かっていました。 でもそういう時代が必ず来る。 「西武が突破しましょう」 と堤さんを説得しました。 世の中を挑発したかった。 やっちゃたなあという感じでしょうか。 生意気になっていたんですね。              90年代、バブル崩壊。 位置のコンペ (提案競争) で負け始めた。          生きづらくなったという印象が年々強まりました。 広告の存在が大きくなり、企業に説明責任が生まれ、採用した案が 「一番いい」 と説明できなけばならなかったためです。 売り上げの貢献、評判、アンケート。 広告効果の 「見える化」 です。 責任者は 「言い訳できるもの」 を選ぶ。 広告が普通の仕事になっていったんです。       コンペでは広告会社など何十人ものチームで乗り込み、大部屋で説明するよになりました。 少人数で友達言葉を使い、自由にアイデアを出し合っていたころとは様変わりです。 僕は 「先生」 扱い。 人対人として横並びでやりたい僕には、実にやりにくい。 よそのチームが、「お前アメリカ人か」 という感じで立て看板に水のプレゼンテーションをしているのを見て、笑いたくなりました。 これは、おれは駄目だわ、と。      「勝つ」 ためだけの言葉が飛び交う戦場になったんです。 説明後は下駄を預け、知らないところで採点される。 話し合って一緒に良くしましょう、では通じない。      負けが5割を超えた時、これはまずいと思いました。 ところが勝った案が後日、実際に広告になったものを見ると 『これか?』 という感じ。 これは負けたのか、と悔しいくなりました。 僕はもう依頼してくれる広告会社を勝たせられない。 しかし提案の 「弱点」 を埋めるなど、自分の仕事ではなくなっていく。 「糸井の案を落とした」 ことを自慢する人まで出てきた。 勝ったから何だ。 そう思え、情熱が失われていくのが分かりました。      もう40代半ば。 勝つためだけに作りたくないもの、おれでなくても作れるものを作りつづけか。 何社かの顧問に就任し 「先生」 として生きるか。 どちらの道に進んでも、自分が駄目になる。       「住む場所」 を変えよう。 そう思い広告の仕事を減らしました。 「イトイはもう終わったな」。 そんな声を遠くに聞きながら、知り合いの大学生たちと釣りに熱中しました。        と3回目の紹介でした。                  ツイートこの記事をつぶやく