2011,10,26

「言葉、この危険なるもの」  コピーライター  糸井重里氏。

       昨日の日経夕刊にも 「人間発見」 のコーナーに糸井重里氏が紹介されていましたが、約束があって早く会社を出て “あぁ・・・ 松茸美味しいな~~  そして今日も酒が美味い” とお客様との会食をしていたものですからアップ出来ませんでした┏○ペコ              大学を中退、フリーター生活が始まった。           ふるさとを失ったような気持でした。 安い映画館、パチンコ、読書とデカダン (怠情) な日々。 遅い思春期ともいいますが。 真面目くさったものから離れ、サブカルチャーにどっぷりとつかりました。 横尾忠則、寺山修司、唐十郎・・・・・・。 この人たちは生き生きとしているな、と。 アメリカ発のヒッピー文化の持つ、単なる反体制ではおさまらない魅力にも惹かれました。       左官やトビなど、アルバイトはいろいろ経験しています。 帰郷の途中、社内で知らない人に 「お前仕事を探しているのか?」 と話しかけられたことも。 よほど困って見えたんでしょう。 その人の紹介で工事現場にも行きました。       広告の文案を造るコピーライターという職業があると友人から聞き、専門学校に1年通ったのが、この道に入ったきっかけです。 自分に向く仕事だとすぐに感じました。 過去の例を見て、俺の方が絶対うまいぞ、と思ったり、こんなことは一生に何度もありません。              学校や就職先で、自分を認めてくれる先達と出会う。          課題の商品をじっと見る。 すっと抜ける瞬間があり、コピーができる。 書く時より見るとき、手より目玉が大事なんです。 皆が見ているものは、既に言葉になっている。 まだ誰も見ていない物を商品の内側から掘り出すには、形や性能だけを見ていてはダメ。 知識を総動員し、脳と目と耳をフルに使う。 楽しいですよ。      相性がいい先生が2人いて、作品を褒めてくれました。 良い指導者がいるのは重要です。      学校を終え、原宿のセントラルアパートにあったファッションの広告会社に4年半勤めました。 自分にも居場所が出来たのがうれしく、仕事も面白かったけど、給料は安かった。 総勢7人くらいの社員がだんだん減り、最後は社長と2人。 そこがつぶれた後は、フリー (個人) でやってきました。      社長から 「おまえは競走馬のハイセイコーだ」 と言われたことを覚えています。 なぜなら、どちらも地方出身だから、って。 思わず笑いました。 同じ年の友人たちは大学を出て、ちゃんとした会社で良い仕事をしている。 そんな自分にエールを送ってくれたんだと理解しました。      あの時の社長の気持ちがよく分かる気がします。 地方出身ということもありますが、ハイセイコーのように優勝させたい、こいつならできるのでは、と思ってくれたんだと。 今になり、この言葉を嬉しく思います。              20代後半には頭角を現し、広告以外の分野にも活動を広げていく。 その一つは歌手・矢沢永吉から聞き書きし、編集した 『成り上がり』 (1978年)。 バンド 「キャロル」 を解散、ソロデビューした直後だった。          このころ最も影響を受けたのがほぼ同年代の永ちゃんえした。 コンサートの楽屋、バーなど、あらゆる場所で話を聞きました。 それまでの僕が触れてきたのは本、受験勉強、大学闘争、ヒッピーやサブカルチャーと、すべてインテリの言葉なんです。      でも、良く考えれば、永ちゃんを支持する人口はインテリより大きい。 僕自身キャロルにぶっとばされました。 僕ら何なんだろう、と。 そもそも当時の大学進学率は2割台しかない。 それなのに大学生は、若者を代表するように 「われわれは」 と語っていたんです。       永ちゃんの言葉は 『私』 の言葉なんです。 「みんな」 がこう思うからお前もこう思え、だから何でも言える。 そう感じました。 言葉が正直なんです。 今も彼は同じ。 芸能人でもなかなかいません。      吉本隆明さんが 「大衆を尊敬する」 と言いますよね。 大事なのは多くの人はどう感じ、どう生きているか。 大衆にさらけ出してテストを受けない思想はひ弱です。 大衆は自分を語り、受け入れられた永ちゃんの言葉は違いました。      そのころまで、コピーライターの仕事は、自分を出さない昔のアナウンサーのようなものでした。 でも僕は、商品と自分の関係を考え、『私』 というフィルターを通さない言葉はかけないと感じ、実際にそうしてきました。 永ちゃんの影響でしょうね。         と、2回目は紹介されています。  明日、3回目をご紹介します。             ツイートこの記事をつぶやく