2011,10,24

「言葉、この危険なるもの」  コピーライター 糸井重里氏。

       日経新聞夕刊の 「人間発見」 のコーナーにコピーライターの糸井重里氏が紹介されていました。                          111024_173225          広告の文案 (コピー) に始まり詩、小説、絵本、テレビと、幅広く言葉を操る糸井重里さん(62)。 インターネットの 「ほぼ日刊イトイ新聞」 では13年にわたり毎日エッセーを書きつづってきた。 言葉を生業にとする原点は小学校時代のある夜にあった。          「あの子は言葉に棘がる」。 父、祖母、新しい母の声が聞こえてきます。 両親は小さいころに離婚し、祖母に育てれたようなもの。 うちでは普通ではない。 どこかそう感じていました。       父が再婚したのは小学生の時。 相手の女性は優しい人でした。 ある日冗談で 「腹が減ったよう」 と身もだえて見せたんです。 普通なら 「うるさいわね」 となる。 しかし母は僕を見て泣いたんです。 あのころ、継母が先妻の子にご飯をあげない、といった話を聞くことがまだありました。 ユーモアのつもりが全然違う意味で受け取られてしまった。 逆側からの視線が計算できなかった僕のせいです。      夜、大人たちの会話を聞き、大変なことをしたとショックを受けました。 言葉は両義性を持つ危険物だと気付かされたんです。 同じ言葉が優しさや豊かさを伝えることもあれば、人を傷つけ不幸にもする。 自分の持つ武器に気付いた瞬間でもあります。 今言葉が飯の種になっているのは、この時の傷がもとともいえます。 子供は不自由だ。 早く大人になりたいな。 日々そう感じていました。             高校卒業まで前橋市で過し、文学や漫画に親しんだ。          雑誌や漫画に登場する 『東京』 にひかれ、大人になったら東京で仕事をしようと決めていました。 街の風景や若者の姿が前橋とまったく違ったからです。 上京すると、雑誌で見た光景や人が全部ある。 素直に感激しました。      後に沢田研二さんが歌った 「TOKIO(トキオ)」 を作詞したとき、東京をスーパーシティーだと描きました。 過密や公害など、東京を悪く言うのが普通だったところです。 へそ曲がりだったけど、地方で育ったおれには、東京はすごいと思っている。 パリやニューヨークと並ぶ都市だと宣言してやれ。 そう思いました。 結果として、皆がうすうす感じ始めていたことを先取りした形になりました。              1967年に上京し法政大学に入学、3畳のアパートに住む。 漫画を描くつもりが学生運動に身を転じることに。          上級生が教室に演説に来たんです。 反論したら 「ゆっくり話そう」 と自治会室に誘われ、そのまま活動に参加することに。 1年生ですよね。 機動隊と衝突するときは最前列。 一番下っ端の 「捕まり要員」 です。      全共闘は脅迫的なアジテーションが好きでした。 明日革命は来るとか戦争になるとか。 戦争中の学徒動員と同じです。 そんな言葉で学生をデモに誘うのも僕らの役割でした。 教室に乗り込み、授業を中断させ、女子学生を口説く。 その場では 「本当? じゃあ行こうかしら」 と言うのに、実際は来ない。 言葉が届かないんです。      一方で冗談は通らない。 サイケ調の文字で立て看板を描いたら怒られました。 当時は長髪だったのですが、集会で挨拶しようとすると先輩が 「糸井君、髪を切ったほうがいいよ」。 涙が出ました。 論争の勝敗が年齢で決まるのにも 『あれ?』 と感じました。      出会った人次第で偶然党派が決まり、その党派を守るために殴り合い殺し合う。 相手の 「正しさ」 を否定するためにはどんな手も使う。 1年半で嫌になり、運動から離れ、大学も辞めました。 社会からドロップアウトしたのです。      大きな声は人の一生を変えてしまう。 命を持ち出し、恐怖や脅しで人を動かそうとする人は相変わらず多い。 僕は20歳の頃感じた距離感をずっと持ったまま40年やってきたんだな、と最近気づきました。 お祭りや楽しさで人を寄せ付けるのがいい。 価値を増やさない行為は嫌なんです。      食べると太る食べ物があるとします。 やめさせるのに 『太るぞ』 と脅しますか。 でも美味しいんですよ。 僕なら 『脂が少なくて、もっとおいしいもの』 を薦めたい。 価値を増やすとはそういうことです。 原発を巡る震災後の言葉を見ていると、特にそう感じます。      と、第1回目が紹介されています。 明日は2回目をご紹介します。                      ツイートこの記事をつぶやく